近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>
「その2」のつづきです。
宇佐山城主郭の北側にある三ノ郭に向かいます。
上の写真は主郭北側の階段。
前稿で紹介したとおり、主郭にはNHKの中継設備が建てられているため、このような階段が設置されています。
階段を降りたところが、主郭と三ノ郭のあいだにある大堀切です。
おそらく往時はもっと深いV字だったのでしょう。
三ノ郭虎口です。
三ノ郭です。
三ノ郭北東から、琵琶湖畔が一望できます。
晴れていたらきれいな眺望だったと思うのですが、この日はあいにくの曇り空。
「近江富士」と呼ばれる三上山です。
安土城のあった安土山も見えます。
その向こうには、観音寺城のあった繖山も。
元亀元年(1570年)9月25日、摂津から駆けつけた織田信長がここ宇佐山城に入ると、浅井・朝倉連合軍は、比叡山に逃げ込みます。
そこから同年12月までの間、両軍睨み合いとなりますが、その間、信長は比叡山延暦寺に対して、それまでに取り上げた寺領を返還するから、せめて中立を保つよう要請しますが、延暦寺はこれを受け入れませんでした。
『信長公記』では、これが、翌年の「比叡山焼き討ち」の原因となったと説いています。
結局、同年12月に朝廷の仲介を受けて、織田軍と浅井・朝倉連合軍は和睦します。
和ぼくに際して、宇佐山城は一時的に破却されたようですが、元亀2年(1571年)の夏までには修復され、明智光秀が城代として入りました。
そして同年9月、あの「比叡山焼き討ち」が実行されます。
その際、ここ宇佐山城が信長の本陣になったとの説がありますが、確かな史料は残っていません。
でも、前年の「志賀の陣」からの流れを考えると、ここが比叡山焼き討ちの拠点となったと考えていいんじゃないでしょうか。
湖畔に見える森のようなところが、のちに明智光秀が築いた坂本城跡公園です。
比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀が、信長から坂本の地を与えられ、翌年の元亀3年(1572年)に坂本城を築いて移ったため、ここ宇佐山城は廃城となり、歴史的役割を終えました。
比叡山方面は、現在は樹木が遮ってよく見えません。
さて、城跡はひと通り制覇したので、弁当食って下山します。
登山口の宇佐八幡宮まで降りてきました。
せっかくなので、お参りして帰ります。
石段を上がったところが境内です。
舞殿です。
本殿です。
ここを訪れたのは令和元年(2019年)11月3日。
天皇陛下御即位を祝う幟と垂れ幕が掲げられていました。
由緒書の石碑には、「織田信長が山頂に宇佐山城を築いた戦乱のなか、落城の戦火により社殿は悉く焼失し荘厳な往時の様子は今に語り継がれている。」とあります。
元亀元年(1570年)の「志賀の陣」のことでしょうね。
本殿の後ろに、何かあります。
何かの礎石跡のようです。
説明書によると、この礎石は創建当時のものだそうで、礎石の表面が焼けただれているのは、宇佐山城の戦火に巻き込まれたときのものと考えられているそうです。
宇佐山城が歴史の記録に登場するのは、元亀元年(1570年)からわずか2年間ほどしかありませんが、その歴史的役割は非常に大きなものだったといえるでしょう。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2020-03-14 14:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
私なんか、そもそも体力がないことあって、実にいい加減なものです(笑)。