丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>
「その1」のつづきです。
前稿で紹介した丹波亀山城跡の大本・天恩郷を訪れたのは平成30年(2018年)6月2日だったのですが、その翌年の令和元年(2019年)5月3日、北側の南郷公園に明智光秀の像が建立されたというニュースを見ました。
で、更にその翌年の令和2年(2020年)2月2日、再び亀岡の地を訪れました。
こちらが、その光秀像。
左右に亀山城の鯱瓦像もあります。
土台は亀山城の石垣をイメージしているのでしょうか。
ここを訪れたのは夕方だったので、逆光で顔がわかりづらいのが残念。
いろんな角度から。
肖像画に似ているといえば似ているかも。
少なくとも、坂本城跡に建てられていた安っぽい石像よりは、数段いい出来ですね。
こちらは、光秀像建立にあたっての説明板。
令和元年(2019年)は明治2年(1869年)に「亀山」という地名を「亀岡」に改名して150年という節目の年にあたることと、令和2年(2020年)のNHK大河ドラマが光秀を主役にした『麒麟がくる』に決定したことが、光秀像建立につながったのだとか。
その資金には、ふるさと納税による寄付金が充てられたそうです。
さすがは大河ドラマ、地方行政をも動かします。
鯱瓦像です。
その説明書きの真鍮板。
反対側の鯱瓦像の土台には、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎が普請したという亀山城天守の図が刻まれた真鍮板があります。
近くには、「明智光秀公築城亀山城趾」と刻まれた石碑が。
光秀像の背後には、南郷池が横たわります。
「その1」でも紹介したとおり、この池はかつての亀山城の外堀の名残です。
前稿での南郷池は夏のロケーション、今回は冬のロケーションです。
南郷池の説明板。
南郷公園はJR亀岡駅のすぐ南側にあります。
これから、この光秀像が亀岡市の顔になっていくのでしょうね。
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by sakanoueno-kumo | 2020-03-20 00:29 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
私には江戸時代の創作のように思えてならないんですが。
実はわたしも最近まで、後世のこじつけだと思っていたのですが、この度の大河ドラマの予習にあたって光秀関連の本を何冊か読んだのですが、どの学者さんも、愛宕百韻の解釈については概ね肯定的なんですよね。
というのも、わたしは和歌などに明るくないので知らなかったのですが、この時代の和歌(特に連歌)は、どれだけ多くの隠語や比喩をを用いるかが勝負だったそうで、ほとんどダジャレととんち合戦だったそうです。
何の引掛けもなく観たまま思ったままをストレートに詠うようになるのは芭蕉以降だそうで、この時代の歌というのは、直訳したらダメなんだとか。
光秀は里村紹巴と互角に渡り合えるほど連歌の達人だったといいますから、光秀の歌にはたくさんのメタファーが散りばめられているはずで、「ときは今 あめが下知る 五月かな」が本能寺の変の1週間前に詠まれたことを思えば、よほど衝動的な事件でなければ、この歌を詠んだときの光秀は、すでに本能寺の変を決意していたか、あるいは迷っていたはず。
となれば、よく言われるこの歌の解釈は、案外的を射ているのかなあ、と。
ただ、それで目論見が事前に漏れてしまったら元も子もないんですけどね。
司馬さんの『国盗り物語』では、紹巴だけがこの歌の真意に気づいたとしていましたが、実際はどうだったのでしょうね。