丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その4 <二ノ丸・本丸>
「その3」のつづきです。
三ノ丸の西側にある虎口から、二ノ丸に登ります。
微妙に喰い違い虎口の形状が見られます。
上から見た二ノ丸虎口。
二ノ丸から見下ろした三ノ丸。
その向こうに丹波黒井の町が広がります。
そして、二ノ丸です。
40m×19mあります。
まだ若そうな桜の木が並んでいます。
ここ黒井城を訪れたのは元号が「令和」に変わる少し前の平成31年(2019年)4月13日。
平成最後の桜です。
しばし桜鑑賞。
綺麗ですね。
向こうの石垣の上は、本丸です。
発掘調査から、本丸東部と二ノ丸北西部に大きな瓦葺きの建造物が建っていたことが実証されているそうです。
写真で見てもわかるように、本丸と二ノ丸の高低差は少ししかないのですが、間に幅2mほどの空堀が掘られており、土橋が架かっています。
空堀です。
往時はもっと深かったのでしょう。
本丸側から見た空堀。
パンフの縄張図を見ると、往時には土橋はなかったようです。
堀ももっと深かったでしょうから、高低差がない分、二ノ丸と本丸は空堀で分断されていて、その間に南に張り出した曲輪を廻って本丸と二ノ丸を行き来していたようです。
本丸から見た二ノ丸。
広いですね。
で、いよいよ本丸です。
黒井城で最も広い曲輪で、48m×22mあります。
黒井城の歴史は、南北朝時代の建武2年(1335年)、丹波国春日部荘を領した赤松貞範が猪ノ口山の山頂に砦を築いたことに始まったとされます(異説あり)。
その後、約200年間、数代に渡って城主の変遷がありましたが、戦国動乱の最中の天文23年(1554年)、赤井(荻野)悪右衛門直正が叔父の荻野秋清を宴の席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って城主となりました。
黒井城主となった直正は、黒井城の改修に手を付けて防御を固めるとともに、その勢威を丹波一円に広げ、さらに但馬にも進出して、その勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と呼ばれました。
当時の名将十三人の1人にも数えられます。
山頂に建つ石碑には、「保月城趾」と刻まれています。
「保月城」とは黒井城の別名です。
石碑の建つ最西端から見た本丸です。
西側を見下ろすと、「その3」で紹介した西曲輪があります。
本丸から見た南側眺望。
丹波黒井の町が一望できます。
ここから赤井直正は、丹波一円に睨みを効かせていたのでしょう。
本丸南側にある虎口です。
ここから下に降りてみましょう。
下から見た本丸虎口の石垣。
そのまま西に目をやると、本丸下の石垣があります。
そしてその下には、「その3」で紹介した帯曲輪が見えます。
さて、本丸まで攻略しましたが、まだまだ黒井城にはたくさんの砦があります。
「その5」では、その砦を攻めます。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2020-04-01 00:22 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)