丹波八上城攻城記。 その4 <本丸、岡田丸>
「その3」のつづきです。
いよいよ八上城本丸跡に登ります。
二ノ丸跡から本丸跡につながる登り口です。
虎口のように見えますが、往時にはなかった登り口で、昭和6年(1931年)に本丸跡に石碑を建てる際に造られた道なんだとか。
本丸跡です。
中央にバカでかい石碑が建てられています。
石碑には、「贈従三位波多野秀治公表忠碑」と刻まれています。
波多野秀治は天正3年(1575年)から天正7年(1679年)にかけての明智光秀の丹波攻めの際に光秀を大いに苦しめた武将です。
丹波波多野氏の出自に関しては諸説ありますが、石見国の吉見清秀が細川勝元に仕えて応仁の乱に活躍し、その戦功によって多気郡小守護代に任じられ、その頃、故あって母方の名字である波多野を名乗るようになったというのが定説となっているようです。
いずれにせよ、丹波生え抜きの武士ではなく、細川氏の後ろ盾を得て成長した新興勢力だったと考えられます。
波多野氏がここ八上城を築いたのは、15世紀後半から16世紀前半と考えられています。
16世紀前半の畿内の戦乱を描いた『細川両家記』には、大永6年(1526年)に「矢上城」という記述があり、遅くともこの頃には築城されていたようです。
16世紀中頃には、三好長慶や松永秀久と対立して、一時は八上城を攻め取られましたが、永禄9年(1566年)に取り戻しています。
天正3年(1575年)、天下統一を目指す織田信長は明智光秀を総大将として「丹波攻め」を開始し、ここ八上城も再三に渡って攻撃を受けますが、その都度耐えしのぎ、光秀を苦しめます。
しかし、天正7年(1579年)6月、明智軍の兵糧攻めに耐えかねて降伏。
波多野秀治ら三兄弟は捕らえられ、織田信長の命によって安土城下の慈恩寺にて磔のうえ処刑されます。
ここに戦国大名波多野氏は滅亡しました。
本丸の面積は約900㎡あるそうです。
本丸に設置された説明板です。
そこに印刷された縄張図です。
周辺のMAPもあります。
周囲も城だらけですね。
本丸から見下ろした西側の二ノ丸です。
本丸の北側を見下ろすと、こちらにも広い曲輪跡があります。
上の縄張図によると、「伝 岡田丸」とあります。
降りてみましょう。
「伝 岡田丸跡」です。
立て札の説明書きによると、重臣岡田某の館がここにあったと伝わるそうです。
まあ、本丸の真横に館があったのなら、そりゃあ重臣だったでしょうね。
ただ、城主の館が「その2」で紹介した「右衛門丸」にあったとされているのに、それより高い位置に家臣の館があったなんて、ちょっと考えづらい気がしないでもないのですが・・・。
岡田丸跡からの北側の眺望。
木々が邪魔して視界は広くないですが、往時はここから城の北側が大パノラマで一望できたのでしょう。
岡田丸跡から見た本丸跡です。
近寄ると石垣が残っています。
石垣は野面積みで、かなり古い時代のもののようですが、波多野氏の時代のものか、あるいはその後の時代のものか、パンフレットなどにも書かれていなかったのでわかりません。
北側から東側にかけて、石垣はきれいに残っています。
こちらは本丸南東部の登り口です。
登り口の斜面にも石垣が見られるので、ここは往時の虎口跡と考えていいでしょう。
さて、本丸まで攻略しましたが、今度は主郭部の東側に進んでみましょう。
「その5」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2020-05-06 22:29 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)