丹波八上城攻城記。 その5 <東曲輪群>
「その4」のつづきです。
八上城本丸跡まで攻略しましたが、城跡はまだまだつづきます。
本丸跡東側の登山道を降ります。
少し下ると、長細い帯曲輪のような場所に出ました。
立て札には、「伝 蔵屋敷」とあります。
その名の通り、ここに蔵屋敷があったのでしょう。
その一段下にも曲輪跡があります。
立て札には、「伝 池東番所」とあります。
この近くに池があって、その水場を守るための番所があったようですね。
戦時に籠もる山城にとって、水場は重要な場所です。
さらに下ると、深い谷底になにか立て札が見えます。
近寄ってみると、「大竪堀」と書かれていました。
たしかに大きな竪堀ですが、離れて撮影できないので、写真では伝わりづらいかも。
縄張図によると、この竪堀の奥に朝路池があるようなので進んでみたのですが、見つけられませんでした。
進路を変えて、尾根伝いに北東に向かって進みます。
しばらく進むと、また「はりつけ松跡」と書かれた立て札が現れます。
天正7年(1579年)6月、八上城主・波多野秀治は明智光秀の兵糧攻めによって降伏しますが、その際、光秀は秀治に対して命の保証を約束して降伏を促し、その証として光秀は実母のお牧を人質に差し出したといいます。
ところが、信じて降伏に応じた秀治を、織田信長は処刑してしまいます。
激怒した秀治の家臣たちは、お牧をここにあった松の木に磔にして殺害したといい、このことで光秀は信長を恨み、それが、のちの本能寺の変の一因となった、と。
もっとも、この逸話は史料に乏しく、江戸時代に生まれた創作とされているようです。
本能寺の変の真相は「怨恨説」「野望説」「信長の非道阻止説」「黒幕説」など、さまざまな見方がありますが、この逸話に基づく怨恨説は、近年はあまり取られないようです。
ただ、平成8年(1996年)のNHK大河ドラマ『秀吉』ではこの逸話が採用され、野際陽子さん演じる光秀の母が磔にされた上で光秀の眼前で槍で突き殺されるという壮絶なシーンが描かれました。
今年の『麒麟がくる』でのお牧役は石川さゆりさんですが、今回も描かれるでしょうかね?
さらに東へ進むと、「伝 茶屋の壇」と書かれた立て札があります。
そのネーミングの根拠はわかりませんが、たしかに曲輪跡と思われる遺構が見られます。
さらに東に進んで、「伝 馬駈場」。
その名称どおりとすれば、ここに馬が繋がれていたんでしょう。
結構山の上なんですが。
縄張図によると、この先にもまだ「芥丸跡」「西蔵丸跡」と曲輪郡が続いているようなのですが、ここを訪れた前年の平成30年(2017年)7月の西日本豪雨で、この先の道が通行止めになっていました。
なので、やむなくここから来た道を引き返し、下山の途につきました。
これで八上城攻略は終了ですが、次回、山麓周辺を散策します。
「その6」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2020-05-07 23:53 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)