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丹波氷上城(霧山城)跡攻城記。 <後編> 二宮神社

<前編>のつづきです。

霧山山頂の氷上城跡を攻略したので、麓の登山口にある二宮神社を参拝して帰ります。


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二宮神社は霧山の西麓に鎮座しています。


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石垣がなんともいい感じですね。

右側に、<前編>で紹介した登山口の立て札が見えます。


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社殿です。

由緒書がないので神社の創建など詳しい情報はわかりませんが、祭神は櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)だそうです。


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社殿の左横に、もうひとつ建物があります。

何でしょう?


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建物の中に石垣のようなものが見えます。


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横の説明板を見ると「二宮神社経塚」とあります。

「経塚」とは、経典や経筒、経石、経瓦などを埋めた塚のこと。

その説明によると、この経塚は縦、横ともに約3間(5.4m)四方、高さ1間(約1.7m)の石造のもので、法華経の経分を一石に一字づつ書いたものが埋葬してあり、石仏や板碑が祀られているそうです。

正面の凹部には、石龕が安置されていたらしく、この銘文から元和9年(1623年)11月に僧・意春別所吉治の支援により建立したことがわかるそうです。


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格子戸の中に石垣が積まれているのがわかります。


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格子の中にレンズを突っ込んで撮影。


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僧意春と経塚の由来が書かれていました。

読みづらいので、全文写します。


今より凡そ四百年前即ち天正八年、織田信長の中国攻めにより播州三木城も落城し、城主別所長治の菩提寺の住職意春上人は長治の子吉治と共に落ちゆく身となり丹波路へと向う。やがて日数を重ねて旅をするうち氷間下村(現在の市辺)に辿りつき今の小守宇之助氏宅に一夜の宿をとり、村人の厚い情により旅の草鞋をぬぐこととなった。意春の信仰と人柄はやがて村人の尊敬を集め現在の浄現寺境内にお堂(観音堂)を建てて住うこととなった。

ところが当時の佐治川は非常な荒川で毎年水害があり、その都度流域の田畑は荒れ住民の生活は困窮のどん底にあったという。意春は村人の教化に努める傍らこれを救うため、由良の庄の領主となった吉治の帰依を得て、市辺に内堤防を築き十六丁畷の土木工事を行った。又後世の村人の幸せを念じつつ法華経の経文を一石に一文づゝ記し周りを石で囲う高さ一間横三間四面の経塚建立した。伝えるところによると、この経塚に用いた石は佐治川の決潰により押し出された石を集めて田の復旧を兼ねたものであるという。その規模は将に丹波随一のものであり、時は江戸初期の元和元年十一月であった。意春は以来朝夕の勤行と托鉢によって村人の難渋を救い里人の厚い信仰を集めた。後年村の西北の山麓に自ら穴を掘り一切の穀物と水を絶ち、産業の発展と村人の火難水難を一身に受けるべく経文を唱えながら鉦の音の絶えた時を息絶えた時と思ってくれと言ひ遺して入定した。時に寛永十九年壬午二月五日であり経塚建立より二十八年目である。以来意春を水難火難の守り神としてその徳を讃え、毎年旧暦二月五日を命日として近郷の人相集い盛大な供養の祈りを行うようになった。入定されて三百三十有余年の今日も尚参詣する人多く線香の煙の絶えたことがない。


長い文章ですが、簡単に言うと、織田信長の播磨攻めの際に落城した三木城の城主・別所長治の子・別所吉治とともに落ち延びた意春上人が、市辺の里で一夜の宿を求めて以来、この地に住みつき、度重なる水害に苦しんでいた村人を助け、由良の領主となった別所吉治の援助を得て堤防の修復や護岸工事道路工事などを行うとともに、村人の幸せを念じてこの経塚を建立した、とのことです。

ただ、ウンチクをいわせてもらうと、別所吉治は別所長治の子ではありません。

吉治は長治の叔父で織田方についた別所重宗の子ですね。

つまり、吉治と長治は従兄弟にあたります。

このような場所で、間違った情報はいけません。

(あとから調べてみると、実は長治の子で、織田方の追跡を逃れるために宗重の子ということにした・・・という伝承があるようです。)


丹波氷上城(霧山城)跡攻城記。 <後編> 二宮神社_e0158128_18001905.jpg


由来文の下には、銘文が刻まれた石板がガラス戸の中に収められています。


丹波氷上城(霧山城)跡攻城記。 <後編> 二宮神社_e0158128_18051270.jpg


その横の説明書きです。

またまた読みにくいので、全文書き写します。


氷上町指定文化財経塚の龕及びその後壁板の復原について

この経塚は縦、横各々5.4m(3間)高さ1.7m(1間)の方形で四方は石垣が積んである。中に一石に一字づつ法華経を掻いて埋めたもので上部は土と小石で埋め、中央に石の龕(下図左、復元想像)が置かれ、その後の石の壁板に字が刻まれていたが、何かで毀されていたのを拾い集めて復原を試みると、下図左のような龕が想像され、又後の石壁板は左の通り略復原でき文字も略読む事ができる(下図右)。それによると、意春という坊さんが元和九年(徳川時代の初期今から(昭和59年)約360年前)に由良の城主別所吉治の援助で建立した事がわかる。この経塚は丹波で最大と言われており、町文化財に指定されており、この金石文も、東地区で最も古いと考えられ、共に市辺部落の誇りであり、大切に保存したものです。


とあります。

この銘文から元和9年(1623年)11月に僧・意春別所吉治の支援により建立したことがわかるそうです。


丹波氷上城(霧山城)跡攻城記。 <後編> 二宮神社_e0158128_18064163.jpg


別所氏の三木城が落ちたのが天正8年(1580年)1月17日、ここ二宮神社の裏山にあった氷上城が落ちたのが天正7年(1579年)5月5日だったといいますから、意春上人がこの地にやってきたときは、まだ、ここも戦火冷めやらぬのときで、明智軍が進駐していたんじゃないでしょうか。

まあ、別所吉治の父・別所重宗は織田方についていましたから、そもそも、三木城の戦火を逃れてきたという伝承自体が、眉唾ものと言えそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2020-08-01 07:40 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

Commented by kumikokumyon at 2020-08-01 09:52
龕って何かわからなくてググりました、どいうかこれもコピペです(笑) 間違ったことを堂々と書いてるのはいけませんねー、この方がお話的に面白いから?でも敵味方くらいは正しく書き表して欲しいですよね!
Commented by sakanoueno-kumo at 2020-08-03 02:57
> kumikokumyonさん

あとから調べてみると、重宗の子と言われていますが、実は長治の子で、織田方の追跡を逃れるために宗重の子ということにした・・・という伝承があるようです。
まあ、この種の伝承というのはよくあるのですが、大概は荒唐無稽なものが多いんですけどね。
一応、本文中にも加筆しました。

「龕」、難しい字ですよね。
わたしも知らなかったのですが、丹波市にある足利家ゆかりの石龕寺という古刹があって、そこを訪れたときに、わたしも「龕」をググりました。
それで読めるようにはなりましたが、書けません(笑)。
紅葉の名所なので、よければ行ってみてください。
https://signboard.exblog.jp/26550137/

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