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明智光秀に焼き払われた柏原八幡宮。

兵庫県丹波市の南部にある柏原八幡宮は、明智光秀丹波攻めの際、明智軍、波多野軍双方の陣が布かれたと伝わる神社です。

「柏原(かいばら)」と読みます。


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柏原八幡宮は、標高150m、比高50mの八幡山山頂にあります。

いかにも砦になりそうな山です。

正面の鳥居は一ノ鳥居


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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』に便乗した観光誘致の幟が立ち並んでいます。


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当初、八幡山には光秀の丹波攻めに備えて、波多野宗長、宗貞父子が迎え討つ陣を布いていましたが、天正7年(1579年)5月、光秀は大軍を率いて柏原に攻め入り、波多野父子の守る八幡宮を攻めかけました。

波多野軍は防戦しますが、支えきれず、宗長は氷上城(霧山城)に退き、宗貞は玉巻城(久下城)へと向かいました。

その際、光秀は八幡宮に放火し、柏原全村を焼き払ったといいます。


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攻め入った村を焼き払うというのは、光秀に限らず、この時代の戦のセオリーでした。

民家は敵兵の隠れ家になるので、焼き払って視界をよくする必要があり、また、神仏を焼き払うことで、地元の民衆に恐怖を与える必要があります。

光秀だけが特別残酷だったというわけではありません。


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八幡山を攻め落とした光秀は、さっそく柏原八幡宮に本陣を布き、高見城穂壺城の攻略の拠点としました。

その後、同年8月9日に黒井城を落城させ、氷上郡全土を平定しました。


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神社の境内がある山頂までは、ずっとこんな石段になっています。


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ふと石段横の玉垣に目をやると、寄進者の名前に赤井姓の方々がズラッと並んでいました。

これって、黒井城赤井氏のゆかりの方々でしょうか?

八幡宮には、「丹波の赤鬼」と呼ばれた黒井城主の赤井(荻野)悪右衛門直正の奉納軍旗「八幡大菩薩」と、直正の弟、赤井幸家の寄進状があるそうです(非公開)。


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二ノ鳥居まで登ってきました。

ここから境内です。


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現在の八幡宮は、3年後の天正10年(1582年)から同13年にかけて、羽柴秀吉堀尾吉晴を普請奉行として再建したものです。


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手前が拝殿、奥が本殿です。

神社のHPの説明文をそのまま引用させてもらうと、本殿は三間社流造、拝殿は入母屋造の両殿が接続した複合社殿で、正面には唐破風の向拝、屋根は総桧皮葺で、昭和の解体修理の際に発見された資料によると、再建以来改造が繰り返され、現存の社殿はこうした改造過程を経た姿であり、日光東照宮の建築等にみられる「権現造」の先駆けとして建築史上非常に貴重な建造物だそうで、国の重要文化財に指定されています。


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本殿の背後のいちばん高いところには、朱塗りの三重塔が聳えます。

これも、神社のHPの説明文によると、最初は応仁2年(1469年)に創建されたそうですが、本殿と同様に幾度の焼失を繰り返し、現存する塔は江戸時代後期文化12年(1815年)に彫刻師の中井権治が中心となって再建された塔だそうです。

高さは26.15mあり、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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明治初めの神仏分離令の際に棄却されようとしたそうですが、「八幡文庫」と称して存続を特別に認められ、現在に至ります。

塔が現存する神社は極めて珍しく、全国で18社のみとなんだとか。

たしかに言われてみれば、塔があるのはお寺で、塔がある神社っていうのは珍しいですね。


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鐘楼です。


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この銅鐘には康応元年(1389)と天文12年(1542)の2つの年号が刻まれており、天正年間に羽柴秀吉が大砲鋳造のため、郡内の鐘を柏原東奥藤ノ目に集めた際、特に優れた物だったため、秀吉が改めて寄進したものだそうです。

これも、県指定の重要文化財


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また、別の説もあって、丹波の弘浪山の山中にあった高山寺城が光秀によって攻め落とされた際、光秀は軍資金のため「高山寺より金(かね)を取ってこい」と家臣に命じたところ、勘違いした家臣は「鐘(かね)」を取ってきたそうで、そこで、その鐘を柏原八幡宮に奉納したと伝わるそうです。

安物のコントのような話ですが、たしかに、よく見てみると、鐘には「高山寺」と銘が書かれています。


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光秀が柏原八幡宮を焼いた理由について、丹波を平定した明智光秀が、その後、ここ八幡山に新城を築いたという説があります。

その根拠は、光秀と親交が深かった京都吉田神社の神主・吉田兼見の日記『兼見卿記』の天正7年(1579年)10月11日の欄に、「光秀は加伊原に新城を普請しているらしい」という記述があり、翌12日の欄には実際に光秀に会い、「(新城の)普請の最中だった」との記述があることで、この「加伊原」「柏原」ではないかという説です。

別の説では、この新城は金山城ではないかという見解もあるそうですが、金山城は丹波攻めの際に黒井城八上城を分断するために築いた城と伝わり、吉田兼見が訪ねた天正7年(1579年)10月というと黒井城八上城落城したあとであることから、戦略的な城ではなく治世のための城だったのではないか、と。

果たしてどっちが加伊原城だったのでしょうね。


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また、興味深い話として、山崎の戦いで明智光秀が敗死したのは天正10年(1582年)6月13日ですが、光秀がここ柏原八幡宮を焼き払ったのも3年前の6月13日だったといい、この「6月13日」に光秀が命を落としたのは「恐ろしき神罰」などと書かれた史料が神社に残されているそうです。

偶然と言ってしまえばそれまでですが、当時の人々にとっては、ただの偶然と捉えるには、あまりにも神がかり的な因縁を感じたのでしょうね。


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山を降りて、最初に紹介した一ノ鳥居の正面にある欅の巨樹です。


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推定樹齢1000年だそうで、となると、光秀がここを攻めたときも、すでに樹齢600年近い巨樹だったことになりますね。

光秀も、この木は焼かなかったんですね。


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その横には、織田神社という小さな神社がります。

ここは、織田信長の弟・織田信包の孫・織田信勝を祭神とする神社です。


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江戸時代初期、ここ柏原藩は織田信包を初代とする織田家の知行でした。

光秀が焼き払った町を織田家が治めていたんですね。

これも、何かの因縁でしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2020-08-07 00:27 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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