丹波の名族足立氏の居城、山垣城跡。 その2 <曲輪群>
「その1」のつづきです。
丹波山垣城跡を登り始めて約10分、中央に祠を祀った削平地に到着しました。
縄張り図を見ると、ここは三ノ丸にあたるようです。

何となく、虎口跡のような地形に見えます。

祠は愛宕社。

縄張り図も載せておきます。
三ノ丸は南北に連なる段曲輪群のちょうど中央にあたり、広さは約20m×20mあります。

本丸を目指して進みましょう。

二ノ丸切岸、約2.5mあります。

切岸を登って三ノ丸を見下ろします。

二ノ丸です。

木々が多くて写真では伝わりづらいですが、二ノ丸は約28m×15mの楕円形です。

本丸に向かいましょう。

本丸切岸は約2mあります。

本丸です。

これも伝わりづらいですが、本丸の広さは25m×20m、約330㎡あります。

山垣城は天正年間、12代城主・足立弥三郎基助のときに織田信長の命による丹波攻めに巻き込まれ、但馬から遠阪峠を超えて侵攻してきた羽柴秀長の軍勢と、丹波南部から攻めてきた明智光秀の軍勢との挟撃に遭い、激戦の末、天正7年(1579年)5月18日に落城したと伝わります。

縄張り図によると、本丸北西には加兵衛の段という曲輪があり、その向こうに北曲輪がありますが、写真で見てのとおり、草深い藪の中に入っていかねばならず、これ以上進むのはやめました。

三ノ丸に戻って、最初の写真にあった虎口跡を上から見た写真です。
次は、このまま南下して南側の曲輪を目指します。

三ノ丸虎口を抜けると、いきなり大きな堀切跡があります。

堀切の下。

堀切を超えて曲輪とは言えない小さな盛土の上に登って見下ろすと、また堀切があります。
上の縄張り図で見てもわかるように、三ノ丸と南ノ平という広い曲輪の間は二重の堀切があります。
これは、おそらく三ノ丸のより上が城主の足立氏および一族の居住スペースで、南ノ平が家臣たちの詰め所にあたり、ここで分断する必要があったんじゃないでしょうか。

堀切の向こうに見えるのが南ノ平です。

南ノ平です。
25m×20mの広さです。

振り返って、二重堀切の中央スペースの切岸です。

本丸からずっと降りてきましたが、どの曲輪にも、基本的に土塁跡のような遺構は見られません。

南ノ平から更に南を見下ろすと、まだ曲輪跡があります。

降りてきました。
縄張り図に曲輪の名称が載っていないので、わたしが南ノ平一段下郭と名付けます。

振り返って南ノ平の切岸。

更に下にも曲輪が。

降りてきました。
便宜上、南ノ平二段下郭とします。

振り返って南ノ平一段下郭の切岸。

更に下の南ノ平三段下郭です。

そしてまた振り返って南ノ平二段下郭の切岸。

山垣城跡のある万歳山は標高235m、比高80mと比較的低い山ですが、ほとんど山全体を使った立派な城だったことがわかりますね。

さて、城跡をすべて攻略したので、下山してきました。
写真は前稿で紹介した足立遠政の墓所です。

下山して山垣城跡の万歳山遠景。

ここを訪れたのは令和2年(2020年)4月5日、桜が満開でした。
令和最初の桜です。
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by sakanoueno-kumo | 2020-10-02 13:40 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)