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麒麟がくる 第27話「宗久の約束」 ~織田信長と足利義昭の上洛~

 永禄11年7月22日(1568年8月15日)、織田信長に招かれた足利義昭が美濃国岐阜に入りました。『信長公記』によると、岐阜の郊外にある立政寺が仮の御所とされたようです。


麒麟がくる 第27話「宗久の約束」 ~織田信長と足利義昭の上洛~_e0158128_21004698.jpg信長が義昭を招いた理由は、義昭を擁して上洛の意思を固めたということにほかなりません。信長はこの前年夏の美濃国併呑直後から、『天下布武』という印章を使い始めていました。ここで言う「天下」とは、まだ日本全国という意味ではなく、京都とその周辺を意味するといわれています。信長はこの『天下布武』を使い始めた頃から、上洛を意識し始めていたと考えられます。しかし、畿内では第14代将軍・足利義栄を擁した三好三人衆が相変わらず勢力を維持しており、新興勢力である信長が上洛するには、その対抗上、足利血胤の貴公子を擁していく必要がありました。一方で、義昭側にしてみれば、直属の軍事力を持っておらず、上洛するには強い大名の後ろ盾を得なければなりません。義昭と信長、お互いの利害が一致したということですね。


麒麟がくる 第27話「宗久の約束」 ~織田信長と足利義昭の上洛~_e0158128_17313088.jpg 美濃から京都に行く場合、通り道は近江だけとなります。北近江を支配する浅井長政は信長の妹・お市の方が嫁いでいたため同盟者であり、敵対が予想されるのは南近江の六角承禎・六角義弼父子だけでした。そこで信長は、戦わずして道を開けさせようと考え、8月7日、浅井氏の支城だった佐和山城まで出向き、そこに7日間もとどまって、六角氏の説得を試みます。『信長公記』によると、このとき義昭の使者を使って説得したと書かれており、その使者とは、あるいは明智光秀細川藤孝、三淵藤英らだったかもしれませんね。しかし、三好三人衆と通じていた六角氏は、この説得に応じませんでした。そこで信長は軍事力を使って突破することを決意し、当時、三好三人衆と敵対していた三好義継、松永久秀と手を組みます。敵の敵は味方というわけですね。


 信長の出陣は永禄11年9月7日(1568年9月27日)、総勢5、6万ほどの軍勢だったといいます。これを知った六角氏は、直ちに邀撃の陣を布きますが、たちまち織田軍に蹴散らされます。そして12日には、佐久間信盛、丹羽長秀、木下藤吉郎らに命じて六角氏の支城・箕作城を攻め落とし、その日の夜半には、本城の観音寺城も落としてしまいます。織田軍はまたたく間に六角氏の本城、支城合わせて11~12城を攻め落としました。六角承禎・六角義弼父子は城を捨てて敗走し、翌13日、信長が観音寺城に入城します。


 なぜ、六角氏はこうも弱かったのか。その大きな理由は、大量の造反者が出たことにあります。六角氏の配下の有力な諸将(後藤、長田、進藤、永原ら)が、次々に六角氏を見捨てて織田方に寝返りました。六角氏では永禄6年(1562年)に観音寺騒動と呼ばれる主従の対立事件が起きており、それ以後も家中で争いが絶えませんでした。いわば、戦う前から内部崩壊していたんですね。やはり、軍事力というのは、いかに結束力があるかに尽きるのでしょう。その意味では、織田軍も美濃を平定したばかりで、決して一枚岩ではなかったと思われるのですが、旧尾張勢と旧美濃勢を、信長の強いリーダーシップでしっかり統制をとっていたということでしょうね。


 このときまだ岐阜にいた義昭は、信長勝利の朗報を受けてすぐに出発し、22日に安土で信長と合流します。記録には残っていませんが、明智光秀、細川藤孝らもそれに同行していたのではないでしょうか。そして9月26日早朝、信長はついに入京に、東寺に陣を布きます。義昭も続いて清水寺に着陣しました。


 今井宗久が出てきましたね。このあと宗久は信長から重用される人物ですが、このとき、宗久が織田軍に甲冑なしで上洛するよう求めたというのは、当然作り話ですし、織田軍が非武装で入京したという記録もありません。ってか、ありえないでしょう。織田軍の快進撃を知った京都の三好三人衆らは、ひとまず京都を離れ、山城の勝龍寺城、摂津の芥川山城、越水城、滝山城などの諸城に籠もって様子をうかがう態勢を取っていました。なので、戦わずして入京できたというのは事実ですが、畿内に基盤のない織田氏にとって、京の街は決して安全な場所ではなく、非武装で入京などというのは、ちょっと考えられないでしょうね。


ただ、この時代の戦では、兵卒たちが盗賊まがいの略奪行為などの悪行に及ぶことが多く、この時期の公家たちの日記を見ても、得体の知れない織田氏が京に入ってどのような悪行に及ぶかを、ひどく心配していたようです。ところが、織田軍は末端の兵卒に至るまでよく指令が行き渡っており、乱暴狼藉はまったくなかったようです。やはり、信長の統率力というのは優れていたということでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2020-10-12 17:32 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)

 

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