丹波小室城(東芦田城)攻城記。 その3 <主郭~北曲輪群>
「その2」のつづきです。
登山開始から1時間15分、ようやく山頂の小室城主郭跡に到着しました。

主郭には、錆びた謎の鉄柱があります。

展望台か何かの残骸でしょうか?
せっかくの城跡の遺構が台無しです。
不要なのであれば撤去してほしいですね。

吼子尾山(くずおざん)、標高519.2mとあります。

主郭はそれほど広くはありません。
居住スペースのような建物は下の段の曲輪にあって、ここには物見台のようなものだけがあったのかもしれません。

小室城の城主だった芦田氏は、信濃源氏の井上氏の一族と伝わります。
平安時代末期の保元3年(1158年)、井上家光(源頼季の子・源満実の三男)が故あって信濃の佐久郡芦田村小室(現・長野県北佐久郡立科町芦田)からこの地に流されました。
保元の乱で平清盛の意に沿わなかったためと言われますが、真偽はわかりません。

家光は、故郷の地名から芦田姓を名乗り、ここに築いた城にも、故郷の地名から小室城と名付けました。
このあたりの丹波芦田の地名も、家光が来てから名付けられたものと思われます。
以来、芦田氏は400年に渡ってこの地域を支配し続けます。

主郭からの南の眺望です。

この山は以前、紹介した氷上城(霧山城)跡のある霧山ですね。


この山の向こうに、赤井直正の黒井城があるはずなんですが、死角になって見えません。

はるか向こうには、赤井直正の弟・赤井幸家の居城・三尾城がある三尾山が見えます。
向こうからも、こっちが見えていましたしね。
ちなみに、赤井氏も遡れば芦田氏の家系につながると言われています。

さて、景色を堪能したので、しばし昼食タイムです。

主郭北側を見下ろすと、こっちにも曲輪があるようです。
降りてみましょう。

降りて来ました。
便宜上、ここを北1郭と名付けましょう。

振り返って、主郭切岸です。
南側より段差が大きいです。

さらに北にも段曲輪が連なっています。

北2郭です。

振り返って、北1郭切岸です。

更に見下ろすと、まだ曲輪がつづきます。

北3郭です。

振り返って、北2郭切岸です。

北3郭の北側には、大きな堀切跡があります。

堀切跡に降りて、北3郭切岸を見上げます。
高い!

更に北側にも曲輪跡がつづきます。

北4郭です。
ここはけっこう広い空間です。

北曲輪群は全部で4段でした。

主郭に戻ってきました。
これですべて攻略したので下山します。

下山しました。
国破れて山河あり、城春にして草木深し、です。

「その1」で紹介した胎蔵寺から東へ800mほどのところにある瑞雲寺は、小室城主・芦田氏の菩提寺だと聞いて立ち寄ってみました。

その説明板です。
芦田八郎金猶によって建立されたとあります。

立派なお寺です。

境内に芦田氏の墓碑があると聞いて来たのですが、説明板などがないためわかりません。
古い墓となると、たぶん、このどれかだと思われます。

小室城の最後の城主は芦田国住でした。
国住は長く同国の山垣城主の足立基助と抗争を続けていましたが、天正7年(1579年)に織田信長の軍勢が丹波国に侵攻してくると、基助と和睦し、同族の赤井氏に呼応して織田方に抵抗するも、同年5月、但馬から遠阪峠を超えて侵攻してきた羽柴秀長の軍勢と、丹波南部から攻めてきた明智光秀の軍勢との挟撃に遭い、小室城は落城。
国住、基助ともに戦死し、名族・足立、芦田の両家は滅亡しました。
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by sakanoueno-kumo | 2020-10-17 10:30 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)