麒麟がくる 第28話「新しき幕府」その1 ~信長の摂津攻めと義昭の将軍就任~
永禄11年9月26日(1568年10月16日)、ついに上洛を果たした織田信長と足利義昭でしたが、まだ摂津には三好一党が息を潜めており、京でゆっくり骨休みとはいきませんでした。信長は28日には山崎まで南下し、29日には城勝龍寺城の岩成友通を降伏させると、翌30日には摂津の芥川山城を落とします。それを見た摂津の越水城、滝山城、伊丹城も降伏し、摂津の池田城だけは抗戦したものの、結局10月2日に降伏し、またたく間に山城、摂津を支配下にしました。このとき、第14代将軍・足利義栄は阿波に逃れ、その後、間もなく病死したといいます。ドラマでは、信長に攻められる前に摂津で病死していましたね。実際のところ、義栄の動向については諸説あり、真相は不明です。
『言継卿記』によると、10月3日、芥川山城に入っていた信長と義昭のもとに、畿内の支配者たちが続々と挨拶に訪れたといいます。このとき、畿内の大名や国衆に対する信長の処置は概ね寛大でした。上洛前にすでに信長に通じていた者はもちろん、攻められて降伏した者に対しても、ほとんど本領を安堵しています。後年の信長とは違い、まだそれほど強大な勢力を持っていなかったこの時期の信長としては、これも政治だったのでしょうね。上洛前から通じていた者のなかには、松永久秀がいました。久秀は前将軍・足利義輝を暗殺した松永久通の父であり、あるいは義輝暗殺の黒幕だったかもしれない人物ですが、その後、ほどなく三好三人衆と対立し、信長にコンタクトをとっていました。畿内に基盤を持たない信長としても、久秀の協力は好都合だったでしょう。敵の敵は味方というわけですね。久秀は10月3日に芥川山城の信長を訪ね、天下の名物といわれる茶器「九十九髪茄子(つくもかみ)」を手土産に、信長に忠誠を誓います。ほぼ、ドラマのとおりですね。このとき三淵藤英らが久秀を仲間に入れることに抵抗したという記録はありませんが、たしかに、前将軍時代からの家臣たちにしてみれば、抵抗はあったかもしれません。
信長と義昭が芥川山城から京都に戻ってきたのは10月14日、その4日後の10月18日、義昭は征夷大将軍の宣下を受け、第15代将軍に就任しました。ドラマでは描かれていませんでしたが、義昭は10月23日に細川邸で戦勝を祝って観能の会を催しますが、能に興味のない信長は、「今はまだ隣国平定の途上であり、これで終わりではない」といい、13番まであったプログラムを5番に縮めさせたといいます。いかにも信長らしいエピソードです。義昭にしてみれば、上洛の望みを果たしてくれた信長をもてなしたかったのでしょうが、信長のお気に召さなかったようです。さらに、その席で義昭は、信長に対して副将軍もしくは管領の職に就くよう勧めたといいますが、信長はこれを辞退して受けませんでした。『信長公記』には、このときの信長を「まことに奥床しき振舞い」と書いていますが、このことから、信長は義昭の家臣になるつもりはないという意思表示をしたものと、よく言われてきました。でも、わたしは、この時期の信長は、まだそこまで考えてはいなかったと思います。むしろ、まだ畿内に強固な基盤のない信長としては、分不相応なポストを得て、いたずらに諸大名から反感を買いたくなかったんじゃないでしょうか。
その翌日の24日、義昭は信長に対して、この度の働きに対する感状と、足利氏の桐の紋章と二引両の使用を許可する御内書を送っており、これは信長も辞退することなく受けとりました。このときの御内書の宛名が「御父 織田弾正忠殿」となっているということは、あまりにも有名ですね。ドラマ中、義昭が信長に対して「織田殿こそ、兄とも父とも思っている」といっていましたが、これは、この「御父」の宛名書きからきたものでしょう。義昭と信長は3歳差でしかなく、兄ならともかく、父というにはちょっと不自然ですが、このころの義昭は、それほど信長に対して敬意を払っていたということがわかります。もっとも、周知のとおり、これが長くは続かないわけですが。
さて、今回は内容が濃かったので、とても1回ではまとめきれません。
明日、「その2」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2020-10-19 19:08 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)