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麒麟がくる 第29話「摂津晴門の計略」 ~光秀の東寺八幡宮領横領~

 前話より唐突に出てきた感のある政所執事摂津晴門「政所」とは、幕府の財政と領地に関する訴訟を掌る職のことで、「政所執事」とは、そのトップの長官でのことです。現代で言えば、財務大臣と土地関係の司法官を兼ねたような任務で、幕府内の要となるポジションでした。室町幕府の政所執事の職は、代々、伊勢氏世襲してきていましたが、永禄5年(1562年)8月、当時の政所執事だった伊勢貞孝が将軍・足利義輝の怒りを買って更迭され、代わって起用されたのが、義輝の側近だった摂津晴門でした。


 今回、絵に書いたようなステレオタイプの悪役として描かれている摂津晴門ですが、実は、摂津晴門という人物のことをよく知らなくて、調べてみました。長く世襲してきた伊勢を更迭してまで義輝が起用した人物ですから、有能な人物であったことは間違いないでしょう。ドラマでは、幕府の利権に巣喰う悪徳官僚のように描かれていましたが、実は、摂津晴門が政所執事になってわずか3年で永禄の変が起こり、義輝以下十数人が殺害されますが、そのとき、晴門も13歳の息子を殺されるという不幸に見舞われています。晴門自身は変に巻き込まれることはありませんでしたが、その後、永禄11年(1568年)2月の足利義栄に対する将軍宣下の式への出席を拒み、一方で、同月に行われた足利義昭元服の奉行を務めていることからみると、ドラマで描かれているような節操のない男ではなく、なかなか筋の通った気骨がある人物だったのではないでしょうか。


 永禄12年4月14日(1569年4月30日)、足利義昭は完成した新しい将軍御所・二条城に入りました。すると、なすべきことをなしたとばかりに、4月21日に織田信長は京都を発ちます。『言継卿記』によると、このとき義昭は別れを惜しんでを流し、信長が遠くに消えるまで門外にたたずんでいたといいます。このときは、まだ信長をこんなにも慕っていたんですね。周知のとおり、こののち、二人の関係は壊れていくのですが、ドラマでは、摂津晴門があれこれ義昭に吹き込んでいましたね。信長との不和も、背景に摂津晴門の存在があったという設定で描くのでしょうか?


麒麟がくる 第29話「摂津晴門の計略」 ~光秀の東寺八幡宮領横領~_e0158128_21004698.jpg信長は京都を去るにあたって、京都奉行を起きました。そのメンバーは、丹羽長秀、木下秀吉、中川重政、そして明智光秀でした。ここで注目すべきは、丹羽、木下、中川が信長直属の家臣なのに対して、光秀だけは、この当時はまだ義昭の家臣という存在だったことです。幕臣から誰かひとり、ということであれば、この当時、光秀より身分的には上だった細川藤孝が任命されても良さそうなのですが、藤孝はメンバーに入っていません。なぜ、ここで光秀が選ばれたのか。それだけ信長が光秀の能力をこの時点で評価していたということかもしれませんが、ドラマ時代考証担当の歴史家・小和田哲男先生の著書によれば、この時点では、光秀の上司にあたる細川藤孝は義昭の側近であり、信長は藤孝を義昭から引き離すことはできないとみて、光秀を抜擢したのではないか、と分析されています。いずれにせよ、信長が光秀を起用した初めての記録が、このときでした。


麒麟がくる 第29話「摂津晴門の計略」 ~光秀の東寺八幡宮領横領~_e0158128_19245426.jpg光秀が東寺の領地を横領したとして訴えられていましたが、あの話は事実です。『東寺百合文書』によると、永禄13年4月10日(1570年5月14日)、東寺の僧・禅識から、幕府奉行人の松田秀雄飯尾昭連にあてて、「光秀が東寺八幡宮領の下久世庄を横領し、年貢や公事物を寺納しない」と訴え出ており、その訴状には、「明知十兵衛尉がこの庄一職を上様(義昭)から仰せつかったと称して、東寺の領地を横領した」と書かれています。この横領に至った経緯はわかりませんが、義昭が直に具体的な土地を指して光秀に直接与えたとは思いないので、光秀自身が調べて自分の所領としたか、あるいは、幕府機関の誰かに聞いたのでしょう。この東寺横領事件、光秀のマイナスイメージになるのでドラマでは描かれないだろうと思っていたのですが、摂津の計略だったという設定でしたね。なるほど、これはなかなか秀逸でした。とにかく、徹底的に摂津を悪役として使おうという趣旨のようです。片岡鶴太郎さんの怪演、期待しましょう。


 この東寺横領の訴状からわかるのは、光秀が義昭から扶持を受けていたということ。そして、信長から京都奉行の一人に任命されていたことから、信長からも多少の扶持を受けていたのではないかと考えられています。将軍家、織田家のどちらの仕事もするけど、どちらかの専属ではないという、いわばフリーランスの契約社員でした。おそらく、朝倉家でも契約社員のような立場だったのでしょう。これは、能力がないとなかなかできない生き方ですよね。このあたりから、少しずつ光秀像が見えてきます。



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by sakanoueno-kumo | 2020-10-26 17:58 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

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