丹後宮津城跡を歩く。 その3 <旧大村邸長屋門>
宮津城跡から大手川を挟んで西側対岸の大手川ふれあい広場に、古い長屋門が残されています。
これは、旧宮津藩士・大村政智の邸の門だそうです。
説明板によると、ここから南へ600m余りの通りを柳縄手というそうで、藩政時代、この場所の北に郡会所、その向い側に米会所があり、柳縄手全体に35軒の武家屋敷と6ヵ所の武家長屋があったそうです。
ここ大村邸は、もとは藩医の小谷仏庵という人物の邸だったそうで、仙庵の次男・小谷謙次郎は、明治13年(1880年)頃に帰郷開業し、「立憲政党」に加盟したそうです。
明治20年(1887年)頃に峰山へ移り、そのあとへ、旧藩士の大村政智が入居したそうです。
政智は維新後に東京へ行って法学を学び、判検事弁護士の資格をとり、明治13年(1880年)に帰郷。
天橋義塾維持講五本の株主となり、「立憲政党」にも加盟し、民権運動に尽力した人物だそうです。
その後、約100年間、邸宅は大村家によって維持されてきたそうですが、昭和61年(1986年)2月、惜しくも事故によって焼失し、この長屋門だけが免れて残ったそうです。
よく残ったものです。
大村家の好意を得て、現在は市有地となって憩いの広場として開放されているそうです。
ここ柳縄手地区からは、大村政智の他にも、沢辺正修や小室信介など、自由民権運動の指導者を多く輩出したそうです。
「その4」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2020-12-26 04:21 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)