明智光秀ゆかりの愛宕山登山記。 その2 <清滝登山口~3合目>
「その1」のつづきです。
清滝の紅葉を堪能したので、山頂の愛宕神社を目指して登山開始です。

表参道の登山口には、愛宕神社の鳥居があります。

誘導看板の表示では、愛宕神社まで4.2km。
スマホのアプリでこの地点の標高を調べると、標高76m。
愛宕山は標高924mなので、比高850mほどということですね。
ガッツリ登山です。

いざ、出陣!

坂は険しいですが、有名な山ということで、登山道はちゃんと整備されています。

登山道の脇には、苔むした石垣が各所に見られます。

まるで城跡のような石垣の跡ですが、これは、江戸時代、愛宕山参拝道には多くの茶屋が設けられていたそうで、その石垣はその名残だそうです。

それにしても、まるで山城の段曲輪跡のようです。

茶屋は一丁ごとにあったと言われ、明治の初めには19軒あったそうです。

麓の鳥居から登ること約15分。
石灯篭と石碑が建てられている場所に出ました。

説明版には「火燧權現跡」とあります。
かつてここに「清滝火燧權現」、あるいは「下権現社」と呼ばれた二間一間の朱塗の社があったそうで、山頂の愛宕神社と同様、火産霊命(ほむすびのみこと)を祀っていたそうです。

石碑には「元鎮座 燧乃社」と刻まれています。

先へ進みましょう。

麓の鳥居から登ること約25分。
「壺割坂」と書かれた説明看板があります。

昔、宇治のお茶を山上に貯蔵して、それを江戸幕府の将軍に献上していたそうですが、あるとき、そのお茶壺を割ってしまったことから、この坂の名がついたそうです。

見上げると、いかにも険しいつづら折りの坂があります。

壺割坂を登ります。

めっちゃハードです。

道中には、約100m間隔で地元消防団が設置した立札があります。
7/40とありますから、まだ700mということですね。

壺割坂を登ると、広い削平地に出ました。

説明板を見ると、「一文字茶屋跡」とあります。
ここも明治初めに19件あった茶屋の跡のようです。

写真をズーム。
いつの時代の写真かはわかりませんが、「名物志んこ一皿代拾銭」とあります。
当然ですが、皆、和服ですね。
和服で登山って、たいへんだったでしょうね。

さらに進みます。

ときどき、こうした倒木が行く手を阻みます。

20丁目の看板があります。
頂上が50丁なので、まだまだですね。

ときどきあるお地蔵さん。
その隣の石碑には、「二十三丁」と刻まれています。

「12/40 愛の炎は燃やしても山は燃やすな!」(笑)(笑)(笑)。

こちらにも、お地蔵さんと「二十五丁」と刻まれた石碑が。

その説明板です。
愛宕神社の表参道沿いには、板碑型と地蔵型の二種の丁石(町石)が1丁毎に建立されています。
この丁石(町石)がいつ建立されたのかはわからないそうですが、1丁目と5丁目の地蔵型丁石には「教学院 施主伊勢津左野宗吉」とあるそうで、伊勢津左野宗吉という人が建立したということがわかるそうです。
江戸時代の墓碑銘などを集大成した「事実文編」には、愛宕神を崇敬し日々お詣りをしていた東条道西(現亀岡市馬路町出身)という人物が、険しい山道を整備し、登山の便を図るため丁石を建てたとあるそうです。
また儒学者の貝原益軒が著した案内書「京城勝覧」にも「町毎にしるしの石立たり」とあるそうです。
貝原益軒は寛永7年(1630年)生まれの福岡藩士で、福岡藩主黒田家の公式歴史書である有名な『黒田家譜』を編纂した人です。
ということは、江戸時代初期にはすでにこの丁石があったということですね。
となると、あるいは、明智光秀が愛宕山に詣でたときも、すでにあったかもしれません。
もしかして、光秀が命じて作らせたものだったりして・・・。
想像が膨らみますね。

まだ3合目ですが、「その3」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-01-13 23:48 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)
















