明智光秀ゆかりの愛宕山登山記。 その4 <水尾山陵参道分岐点~黒門>
「その3」のつづきです。
登山開始から約1時間半、標高710mほどのところに、清滝と水尾の分岐点があります。

清滝は「その1」で紹介した南麓の集落で、水尾は、西側の保津峡の方面にある小さな集落です。

石碑には、「水尾山陵参道」とあります。
清滝からの登山道は愛宕神社への表参道ですが、水尾からの参道もあります。
明智光秀が居城の亀山城から愛宕山に詣でたときは、おそらくこの水尾山陵参道を登ってきたと思われます。

左へ行けば水尾方面に降ります。
右へ行けば山頂。
つまり、ここからは、表参道と水尾山陵参道が合流するということですね。
ということは、ここからは光秀も通った道です。

このあたりで7合目。
頑張ろう。

しばらく登ると、また小屋があります。
ここも茶屋跡でしょうか?

説明板には「ハナ売場」とあります。
愛宕さんの火伏の神花樒の売場だそうで、『洛西嵯峨名所案内記』(1852年刊行)「樒枝売場」には、「土人花うり場といふ。古来樒を此山の神符とし、火災を除く。水尾村の女毎日此所に出て売る。参詣の人是をもとめ土産とす。」とあるそうです。
水尾の女性が毎日ここまで上がって来て樒を売り、お参りした人々は、火災を除く神符としてお土産にしたそうです。

近年まで、水尾の女性は、榛の木で染めた三幅の前垂れをつけ、樒を背負って水尾から愛宕神社まで上がり、神前に供えてから販売をしたそうです。
毎日樒の葉を一枚ずつ、オクドさん(竈)にくべると火事にならないと言われ、竈が無くなった今でも多くの人が買い求める姿を見ることができるそうです。

ハナ売場をあとにして、先に進みましょう。

看板には、麓と山頂では気温差が約10度もあると書かれています。
この日は令和2年(2020年)11月15日。
小春日和の温かい日だったのですが、たしかに、このあたりまで登ってくると、体は汗をかいているのですが、空気は冷たく感じ始めました。

お下りやす。

「35/40 捨てないで ちゃんと家まで連れてって♡ byゴミ子」(笑)

「37/40 あと少し!! 山頂まで頑張ろう」

「38/40 中年ハイカー気をつけて!!」
はい、中年ハイカーです。

門が見えてきました。

黒門です。

なぜ、神社の参道に寺院風の門が?・・・というのは愚問。
古来、日本では神と仏は同じものとして信仰されていました(神仏習合)。
なので、江戸時代以前は神様と仏様が一緒に祀られることは当たり前のことで、神社の附属として建てられたお寺を「神宮寺」と呼び、お寺に附属する神社を「鎮守社」と呼んでいました。

ここ愛宕山も例外ではなく、山頂の愛宕神社の境内には、天応元年(781年)に光仁天皇(第49代天皇)の勅に基づき、和気清麻呂と慶俊僧都によって神宮寺の白雲寺が建立され、以降、江戸時代をまで、福寿院、威徳院、長床坊、大善院、教学院、宝蔵院という六つの宿坊が建ち並んでいました。
ところが、慶応4年(1868年)に明治新政府が発令した神仏分離令によって白雲寺は破却となり、この門を残すだけとなったそうです。

その説明板です。

古写真が載っています。
明治か大正あたりでしょうか?

黒門をくぐる石段には、文字が刻まれた石碑のような石があります。
転用石でしょうか?

「神仏分離令」とは、明治に入って、尊王攘夷をマニフェストに幕府を倒して新政権を作った薩長政府が、「攘夷」の公約はすぐに破りますが、せめて「尊王」の公約は守るため、天皇を頂点とする国家づくりを始めたわけですが、その際、天皇が正当な日本の支配者であると強調するために、天皇を現人神とし、神道を重要として仏教を邪教としたんです。
天皇の祖先である神様と仏様が同じであっては困る、というわけで、いわゆる「神仏分離令」が発令されました。
これを進めたのは、おそらく当時の新政府の指導者であった岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らだったでしょう。
これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれました。
明治政府が行った最大の愚策だとわたしは思っています。

黒門をあとにして、頂上を目指します。

黒門を過ぎると、頂上まであとわずか。
石段も神社の境内風になってきました。

石垣が出現しました。

「40/40 おつかれさま!!神社まで300m」

この石垣の入り口を入ると、いよいよ愛宕山山頂のようです。
・・・が、今回も長くなっちゃったので、「その5」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-01-15 22:58 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)
















