麒麟がくる 第42話「離れゆく心」 その1 ~荒木村重の謀反~
荒木村重の謀反は描かれないだろうと思っていましたが、やりましたね。おそらくこのあとの有岡城の戦いは詳しく描かれないでしょうから、ここで少し解説します。
天正6年(1568)10月、摂津有岡城主の荒木村重が、織田信長に対して反旗を翻します。村重の謀反は信長にとってまったくの寝耳に水だったようで、『信長公記』によると、謀反の報せを受けた信長はなかなか信じなかったといい、また、ルイス・フロイスの『日本史』の記述によると、信長はかなり狼狽していたといいます。なんとか村重を思い止まらせたい信長は、すぐさま使者を送って説得にあたらせました。ドラマでは、その使者は明智光秀と羽柴秀吉でしたが、『信長公記』によると、使者は明智光秀、松井友閑、万見重元らだったとされます。松井友閑は信長の家臣のなかでは交渉ごとに長けた人物であり、前年に謀反を起こした松永久秀の説得交渉にも派遣された人物です。光秀は、村重の息子・村次に光秀の娘が嫁いでいたという関係から、使者として派遣されたのでしょう。『信長公記』によると、信長は村重に対して、「(村重の)母親を人質に出せば、この一件は水に流す」とまでいったといいます。鬼の信長にしてみれば、これ以上ない譲歩といえます。
光秀らと面会した村重は、一度はその説得に翻意し、信長に面会して釈明すべく安土城に向かいますが、その道中、家臣の中川清秀の居城である茨木城に立ち寄ったところ、「信長の気性からして、一度疑われた者は、いずれ滅ぼされるのは必至。このうえは信長と戦うべし」と進言され、結局有岡城に引き返してしまいます。これで、村重の謀反は決定的となりました。
村重の謀反の意思が固いと知った信長は、石山本願寺と村重の両軍を敵に回すのはマズイと考えたのか、朝廷を通して石山本願寺との和睦を模索します。その一方、木津川口の戦いで織田水軍の鉄甲船が出撃して毛利水軍を大敗させると、5万の大軍を率いて摂津に進軍し、村重の傘下だった茨木城の中川清秀、高槻城の高山右近を切り崩します。残る敵は村重の籠もる有岡城のみとなりました。信長はこれを大軍で包囲しますが、有岡城は惣構を持つ難攻不落の要塞で、容易には落ちません。この攻防戦は、翌年の9月まで続くことになります。その間、村重を説得に行った黒田官兵衛孝高が拉致監禁されていたという話は、あまりにも有名ですね。
籠城戦が始まって1年近くたった天正7年(1579年)9月2日、なぜか村重は、わずかな側近を連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・村次のいる尼崎城(大物城)に移ってしまいます。この村重の行動については、はっきりしたことはわかっていませんが、逃亡との解釈が多いようです。期待していた毛利の援軍がいつまでたっても来る気配が見えず、このまま孤立無援状態では敗北は必至、家臣たちのなかには、村重を殺して、その首をみやげに信長のもとへ走ろうという空気も立ちはじめていたといいます。敵方のみならず家臣からも命を狙われ、極度の恐怖心を抱いていたのかもしれません。このとき、愛する妻さえ置き去りにしてきた村重でしたが、茶道具は持ちだしています。よくわからない行動ですよね。
主を失った有岡城は、織田方の調略などで内部から崩れ始め、10月15日、織田軍の総攻撃が開始されます。このとき、獄中に繋がれていた黒田官兵衛が救出されました。
有岡城落城に際して信長は、「尼崎城(大物城)と花隈城を明け渡せば、女子供は助ける」との条件を荒木方に提示します。城主不在となった城を守っていた荒木久左衛門は、この信長の提案を受け、村重の判断を仰ぐべく妻子たちを人質に残して尼崎城に向かいます。しかし、村重は荒木久左衛門との面会を拒否。窮した久左衛門らは、有岡城に人質の妻子を残したまま逃亡してしまいます。怒った信長は、見せしめとして、日本史上最も残虐といわれる処刑を、荒木一族に対して行います。重臣の妻子122名が尼崎城近くの七松にて磔の上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。このときの様子を、商人・立入宗継は、「かやうのおそろしき御成敗は、仏の御代より此方の始め也」と、自身の見聞録『左京亮宗継入道隆佐記』に記しています。その後も信長は、逃亡していた荒木一族を見つけ次第、皆殺しにしていきました。信長の怒りの激しさが伺えますが、この苛烈な報復行為には、荒木一族のみならず、信長に付き従う者たちも皆、恐れおののいたに違いありません。おそらく、村重と姻戚関係にあった光秀も、心穏やかではなかったでしょうね。あるいは、これも「本能寺の変」に繋がるひとつのきっかけだったのかもしれません。
それにしても理解できないのは、村重の行動ですね。妻子を置き去りに城を抜けだしたことはもちろん、その後の信長の提案に乗らず、一族を見殺しにした事実も、後世にして「卑怯者」と罵られる所以です。もし、このとき観念して信長の提案をのみ、自身の腹を切って妻子を助けていたら、後世の評価もずいぶん違ったものになっていたことでしょう。というのも、史実では、このあと村重は摂津花隈城に逃げ込み、最後は毛利領に亡命して隠れていたといいます。これを、しぶといと見るかブザマと見るかは意見が分かれるところでしょうが、せめて、打倒信長を掲げて再起を目指していたと思わなければ、殺された一族が浮かばれない気がします。
作家・司馬遼太郎氏はその著書『歴史のなかの邂逅』のなかで、この一連の出来事について、
「われわれが持った過去の事件で、村重に即してみても、虐殺された女子供たちに即してみても、これほど救いがたい事件はないのではないか。」
と、記しています。残虐な報復行為を指示した信長も、それを見殺しにした村重も、どちらも人格的欠陥者がもたらした日本史上最も救いがたい事件だ・・・と。
荒木村重の謀反だけで、めっちゃ長くなっちゃいました。明日、「その2」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-01-25 11:21 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)
















