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麒麟がくる 第42話「離れゆく心」 その2 ~鞆幕府と松平信康自刃事件~

 「その1」のつづきです。

 織田信長によって京都を追放された足利義昭は、備後のにいました。鞆は古くから足利将軍家とも所縁が深く、たとえば、初代将軍の足利尊氏が九州から京都に攻め上る途次、ここにしばらく滞在したといい、また、第10代将軍の足利義稙も、やはり西国から上洛する際、ここに立ち寄ったといいます。義昭が鞆に来たこの時代、この鞆は西国の有力大名・毛利氏の勢力圏内にありました。


麒麟がくる 第42話「離れゆく心」 その2 ~鞆幕府と松平信康自刃事件~_e0158128_17561347.jpg 信長によって京都を追われた義昭でしたが、信長は足利将軍家を否定してはおらず、義昭は依然として征夷大将軍でした。そのため、後世にこれを「鞆幕府」と呼ばれたりします。天正4(1576)年2月に鞆に入った義昭は、毛利氏に対して、自らを擁立して信長と戦うよう求めます。しかし、この時期、まだ信長との関係が決裂していなかった毛利氏は、当初、煮え切らない態度で義昭と接したといいます。毛利方にしてみれば、義昭を受け入れることで信長との関係悪化を恐れたのでしょう。毛利氏にとって将軍の下向は、あまり歓迎すべき賓客ではなかったようです。しかし、義昭は勝手に来てしまった。毛利氏は3ヶ月に渡って協議を重ねた結果、信長との対決は避けられないと結論付け、天正4(1576)年5月、義昭の受け入れを決断します。これを受けた義昭は、室町幕府再興を目指し、毛利輝元に対して副将軍職を与え、京都にいたときと同じく、上杉氏、北条氏らの有力大名に打倒信長を呼び掛けました。あるいは、明智光秀にもコンタクトをとっていたかもしれませんね。決して、毎日鯛を釣っていたわけではありません。


麒麟がくる 第42話「離れゆく心」 その2 ~鞆幕府と松平信康自刃事件~_e0158128_15185801.jpg ドラマで徳川家康が明智光秀に相談を持ちかけていたのは、家康の命令によって嫡男の徳川(松平)信康自害に追い込まれ、家康の正室・築山殿も家臣によって殺害されたという松平信康自刃事件のことですね。この事件については諸説あって真相は定かではありませんが、長年、通説となっていた『三河物語』によると、織田信長の娘で信康に嫁いでいた徳姫が、姑の築山殿との折り合いが悪く、信康との夫婦仲も良くなかったので、天正7年(1579年)、父・信長に宛てて夫と姑の愚痴12箇条に綴った手紙を書きます。その内容は、信康の日頃の乱暴な振る舞いを嘆き、また、自分が女児しか産んでいないことを姑の築山殿から罵られたということなど、現代の夫婦間でもありそうないざこざですが、そのなかに、信康と築山殿が武田家と内通している疑いがあるとの報告がありました。これが事実なら、織田家としては捨て置けません。


 信長は真偽を確かめるべく、徳川家家老の酒井忠次を呼んで詰問します。『三河物語』によると、信長から問いただされた忠次は、何の弁解もしなかったばかりか、あろうことか、信康をかばうことなくすべてを事実と認めてしまいます。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求しました。苦渋の決断を迫られた家康は、やむをえず信康の処断を決断。正7年(1579年)8月29日、まず妻の築山殿を家臣に殺害させ、さらに9月15日、二俣城幽閉されていた信康に切腹を命じました。これが、徳川家の最大の悲劇といわれる松平信康自刃事件です。


 もっとも、この通説は、近年では否定されはじめています。この説は江戸時代に入ってから書かれた『三河物語』のみにある話で、同著は、徳川家に都合よく書かれた部分が多々見られるため、史料として十分とはいえません。また、信長が自身の息子である織田信忠より信康の方が優れていると見て、息子の代になって徳川と織田の力関係が逆転することを恐れて事前に芽を摘んだという説もありますが、これも、何の根拠もない推論にすぎませんし、本当に信康が有能な人材だったのなら、能力主義の信長であれば、むしろ婿として重宝したのではないかとわたしは思います。『信長公記』にはこの事件の記述はなく、この事件に関しては、信長は不介入だったと見るほうが妥当かもしれません。


麒麟がくる 第42話「離れゆく心」 その2 ~鞆幕府と松平信康自刃事件~_e0158128_15190240.jpg 築山殿の殺害についても史料に乏しく詳らかではありませんが、ひとつの説としては、築山殿は今川一族の出であり、彼女の父は家康が今川氏を裏切って織田氏と結んだことで今川氏真切腹させられ、そのことで、築山殿は家康を憎んでいたとの見方があります。そのせいか、のちに今川の人質生活から岡崎に移ったあとも、岡崎城には入らず(あるいは入ることが許されず)、城外にある惣持尼寺の西側に屋敷を与えられ、そこで暮らしていました。その屋敷の地が惣持尼寺の築山領であったことから、「築山殿」と称されるようになったと言われます。そんな立場ですから、当然、信長の娘である徳姫との関係も悪く、かつて武田氏の家臣だった浅原昌時日向時昌の娘を信康の側室に迎えさせ、また、築山殿自身も、唐人医師の減敬とのゲス不倫があったとも、武田氏と内通していたともいわれます。


 しかし、これらもすべて確かな史料には見られず、後世に作られた話と思われます。築山殿が今川を裏切った家康を憎んでいたという話はあったかもしれませんが、そもそも彼女に武田氏と内通するほどの政治力があったとは考えづらく、これも、築山殿の殺害を正当化するために理由づけされたものと見るべきでしょう。別の説では、信康を殺せば築山殿は半狂乱になるだろうとし、信康に切腹を命じる前に彼女を殺したとの説もあります。しかし、それだけで正室を殺すというのも、理由としては薄い気がしますね。いずれにせよ、わかっているのは、信康の自刃の約半月前の天正7年(1579年)、遠江国の佐鳴湖の畔の小藪村にて、家康の家臣によって殺害されたということ。一説には、信康の助命嘆願のために浜松城に向かう途中だったとも。子を思う親心は、いまも昔も変わりません。


 信康の自刃に関しては、近年の研究では、家康との父子不仲説が主流となりつつあるようです。不仲説というと聞こえが悪いですが、この時期、織田氏と同盟関係にありながらも、徳川家内はまだまだ武田氏と結ぶべきとの意見も多く、その急先鋒が息子の信康だったとされ、そのせいで、家臣団も両派に分裂しつつあったとされます。家康は徳川家の分裂を避けるため、やむを得ず息子を殺す決断をした、と。一国を預かる武家の棟梁としては、肉親の命よりも、お家の結束が優先だったんですね。信長に命令されて自害させたというのは、後年、息子殺し正当化するために、信長に責任を擦り付けたのでしょう。死人に口なしですから。


 後年、家康は関ヶ原の戦いにおいて、大遅参した三男・徳川秀忠の器量のなさを嘆き、「信康が生きていてくれれば・・・」ため息をついたという有名な話がありますが、奇しくも、その日は9月15日、信康の21回目の命日でした。きっと、家康は戦い前から信康のことを思い出していて、だから、そんな言葉を吐いたのでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2021-01-26 23:56 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

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