明智越え その3 <峯の堂~土用の霊水>
「その2」のつづきです。
JR亀岡駅から約1時間10分、登山口から約40分のところに、駅でもらった案内パンフにあるチェックポイント「峯の堂」に到着しました。

立て札には「石堂丸ゆかりの石堂の森 峯の堂 通称いしだぁはん」と書かれています。
峯の堂(むねんどう)と読むそうです。
そして、その向こうには説明板が見えます。

説明板です。
ここに清和天皇(第56代天皇)を祀ると書かれています。
清和天皇といえば、清和源氏の祖として有名な天皇ですね。
貞観18年(876年)に第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位した清和天皇が、その後、出家して隠遁生活を送り、崩御されたのがこの場所だそうです。
その後、この場所に清和天皇を祀る社が建立されていたそうです。

説明板によると、天正10年5月27日(1582年6月17日)に連歌師・里村紹巴と愛宕山で連歌会・愛宕百韻を催した明智光秀が、その帰り道にこの場所を訪れ、清和天皇に本能寺の変の必勝祈願をしたといわれているそうです。
本能寺の変自体、当日まで側近さえ知らなかったことですから、ここで必勝祈願をしたなんて誰も知っているわけがない・・・と突っ込みたくなりますが、それは無粋というものですね。
光秀の出自は土岐源氏の庶流と言われますから、それが本当なら、源氏の祖である清和天皇を祀る社に必勝祈願をするというのは、ごく自然な行動だったかもしれません。
源氏の末裔として、平氏の末裔と称する織田信長を討つ!・・・ここでそう誓ったかもしれません。
必勝祈願が功を奏してか、本能寺の変は成功しますが、その後、羽柴秀吉との戦いに敗れて三日天下に終わった光秀。
志半ばにして散った光秀の無念さに鑑み、いつしかここを「無念堂」と呼ぶようになったといわれているそうです。

社が築かれていたと伝わる丘の上に登ってみましょう。

これは石垣の痕跡でしょうね。

丘の上です。
それほど広くはありませんが、ここで源氏の祖となる清和天皇が崩御されたと思うと、なんとも不思議な感覚です。

さっきの説明板を見下ろします。
けっこうな高さの切岸ということがわかるかと思います。

こっちは堀切のように見えます。

この地点で標高380m。
登山口が標高145mほどだったので、かなり登ってきました。

峯の堂を過ぎると、尾根道が続きます。

ところどころ台風の影響と見られる倒木が道を遮っています。

また立て札が。

「鐘撞堂跡 愛宕山白雲寺五千坊跡」とあります。
愛宕山白雲寺とは愛宕山山頂にある愛宕神社の前身で、江戸時代以前の神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られていました。
その鐘撞堂がここにあったということでしょうね。

木の切り株が邪魔ですが、北側に標高636mの牛松山が見えます。

尾根道を東へ進みます。

ここは土砂崩れが起きてたようですね。

分かれ道には必ず誘導板が設置されているので、迷うことはありません。

ここを訪れたのは令和2年(2020年)10月31日、小春日和の爽やかのハイキング日和です。

ここも土砂崩れのあとのようですね。

その土砂崩れの前に、立て札があります。

「明智光秀ゆかりの土用の霊泉 馬の水飲み場」とあります。

説明板です。
明智光秀軍は本能寺に向かう際、この霊泉に三七草をつけて蘇らせ、それを鎧の下に秘めて進んだと伝えられているそうです。
三七草は止血の効果が卓越といわれるそうです。

湧き水を探してみたのですが、見当たりません。
もう涸れちゃったのでしょうか?

土用の霊泉からの南側眺望です。
説明板には、「この所より都の眺めは、天下の佳景ともいえよう」と書いていましたが、南東の洛中方面は木々が邪魔して見えません。

土用の霊泉の地点で、亀岡駅を出発してから1時間40分、登山口から1時間10分が経過。
でも、パンフに記載されていた目安の所要時間は3時間30分とありましたから、まだ半分か~って感じです。
「その4」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-01-29 23:26 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)
















