備中高松城跡と古戦場を歩く。 その6 <石井山秀吉本陣跡>
「その5」のつづき、シリーズ最後です。
高松城址公園から南東約600mのところに、備中高松城の戦いで羽柴秀吉が本陣を布いた石井山があります。
「その1」で高松城址公園から見えていた、あの山です。

最上稲荷の大鳥居の側にある駐車場に車を停めて歩きます。

登山口です。
「太閤岩入口」とあります。
秀吉にまつわる伝承の岩があるようですね。

10分ほど登ると、虎口跡と見られる場所に着きます。
そこを通ると、本陣跡なのですが、・・・。

その手前に「宗治公首塚跡」と書かれた駒札があります。
行ってみましょう。

あそこのようです。

ありました。

まずは説明板。
天正10年6月4日(1582年6月23日)、講和の条件として自刃した清水宗治の首級は、ここ石井山にあった持宝院境内において秀吉の首実検のあと、ここに葬られたそうです。
本来であれば、宗治の首級は織田信長の実検を受けるために京都に送られるべきところですが、この2日前に本能寺の変が起き、その必要がなくなっていたんですね。
その後、明治42年(1909年)に、「その2」で紹介した高松城址公園に移葬されたそうです。

つまり、ここは清水宗治原瘞處ということですね。
「原瘞(げんえい)」とは最初に埋めたお墓という意味です。

説明板には、秀吉はここに五輪塔を建立させたとありましたが、現在は「清水宗治首塚跡」と刻まれた石碑があるのみです。

首塚跡を過ぎると、すぐに秀吉本陣跡に着きます。
かつてここに持宝院という寺院がありました。

本陣跡です。

それほど広くはありませんが、往時は周囲の樹木がなく、もっと広かったのでしょう。

高松城址公園から見えた幟旗ですね。

実は、高松城址公園を訪れたのは平成30年(2018)5月5日で、ここ石井山本陣跡を訪れたのは令和元年(2019年)5月11日、約1年後のことでした。
その1年間の間に、西日本を襲った大きな台風が2つ、そして、ここ岡山に大きな被害をもたらした西日本豪雨がありました。
幟が破れているのは、おそらく、その3つの天災のいずれかの仕業でしょう。

本陣跡から見た北西の眺望です。

高松城址公園も見えます。
秀吉はここから水没した備中高松城を見ていたんですね。

高松城址公園にズームイン。

さらに主郭跡にズーム。
二ノ丸、三ノ丸が水没し、ここだけが浮島のように残っていたのでしょう。

本陣跡の側に、「右下の谷間は秀吉公の軍馬繋留地跡」と書かれた立て札がありました。
覗いてみましたが、よくわかりませんでした。

さて、更に奥にあるという太閤岩に行ってみましょう。

太閤岩に向かって歩きながら、あらためて備中高松城の水攻めについて考えてみたいと思います。
秀吉は中国攻めに入る前、播磨の三木城と因幡の鳥取城を兵糧攻めで落としたというのは周知のところだと思います。
「三木の干殺し」「鳥取の渇殺し」、そして「高松の水殺し」をあわせて秀吉の三大城攻めと言ったりしますが、三木城や鳥取城がシンプルな兵糧攻めだったのに対し、なぜ備中高松城だけは大掛かりな水攻めを必要としたのか?という疑問がわきます。
もちろん、時節的にも立地的にも条件が揃っていたからにほかなりませんが、それでも、普通の兵糧攻めでも良かったはず。
秀吉は、この土木工事でたいそう散財したといいますから、そうまでして奇策を用いるには、そうしなければならな理由があったと考えるべきですよね(だいたい、もしこの奇策が失敗して堤が決壊でもしたら、士気は一気に衰え、形勢逆転は避けられなかったでしょうし)。

で、わたしが思うに、秀吉は何らかの理由で決着を急いでいた、三木城のような長期戦になることを嫌ったんじゃないかと思うんですね。
その理由は、信長から厳しく急かされていたからかもしれませんし、あるいは、時間をかければかけるほど毛利の援軍が増え、形勢が不利になると考えたからかもしれません。
いずれにせよ、普通の兵糧攻めより短期間で決着がつく作戦を模索し、そこで目をつけたのが時節や立地であり、そして水攻めに考え至った・・・と。
で、その狙いはみごとに成功し、水攻めを目の当たりにした毛利方は、たちまち戦意喪失、和睦交渉に乗り出すわけですが、その和睦交渉中に、「敵は本能寺にあり!」が起こるんですね。

あまりにも話しが出来すぎている気がしませんか?
あるいは、本能寺の変を予見していた?
俗説では、本能寺の変秀吉黒幕説なんてのもありますが、わたしはさすがにその説は採りませんが、ただ、普通に考えて、そもそも「京の本能寺に信長様がわずかな兵で泊っている。襲撃するには絶好のチャンス」と思っていたのは、何も明智光秀だけではなかったでしょう。
だとすれば、それを実行するのは、いちばん近い丹波にいる光秀。
それぐらいの予想は秀吉にもついたんじゃないでしょうか?
秀吉は、密偵などを使って、光秀の不穏な動きはある程度把握していたんじゃないかと。
その上で、もしもの場合を想定して勝負を急いでいたんじゃないかと。
だから、あれほど俊敏な対応ができて、のちの「中国大返し」をやってのけたんじゃないかと。
穿ち過ぎですかね?

そうこう言っていると、太閤岩に到着しました。

太閤岩です。

説明板です。
石井山に本陣が移されたとき、付近にあるこの大岩が着目され、作戦上の目標物として活用したとありますが、作戦上の目標物って、どういうことでしょう。
イマイチわかりません。

太閤岩と呼ばれる史跡は全国各地にあって、わたしがこれまで訪れたところでも、兵庫県高砂市の太閤岩や、兵庫県西脇市の太閤腰壁石などがありますが、どれも眉唾ものですね。
何でも「太閤」と名が付けば、きっと村人たちが喜んだのでしょう。

もしここが本当に秀吉の居場所だったのなら、本能寺の変の報を受けたのも、ここだったかもしれませんね。
信長横死の報せを聞いた秀吉は、周りを憚ることなく大声を上げて泣いたといわれますが、その話は『太閤記』が伝えるところなので、真偽はわかりません。
もし、実話だったとしても、それは大いにパフォーマンスだったんじゃないでしょうか。
心の中は、きっとガッツポーズだったんじゃないかと。

あくまで結果論にすぎませんが、もし、水攻めで決着を急いでなければ、のちの「中国大返し」はなかったかもしれませんし、そうなれば、その後の日本の歴史も大きく変わったかもしれません。
なんとも絶妙なタイミングだったわけですね。
備中高松城の水攻めは、単に日本戦史上に刻まれた奇策というだけではなく、日本史を大きく変えたターニングポイントだったといえるでしょうか。
まさに、歴史の妙です。
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by sakanoueno-kumo | 2021-04-01 23:44 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
私はJRで行ったので、まず先にこの巨大鳥居が目につきました。
ただ、本殿の方まではとても行けませんでしたけどね。