青天を衝け 第9話「栄一と桜田門外の変」 その1 ~安政の大獄~
今回は「安政の大獄」から「桜田門外の変」、そして徳川斉昭の死まで一気に歴史が動きましたね。幕末の動乱が一気に加速することとなった安政5年(1858年)から安政7年(1860年)にかけての出来事ですが、ドラマでは、安政の大獄の直接的な原因となった「戊午(ぼご)の密勅」が省略されていたので、まずはそこから解説します。
徳川斉昭や松平慶永(春嶽)ら政敵を一掃した大老・井伊直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという勢力が動きはじめます。このとき最も働いたのが、梅田雲浜や頼三樹三郎、梁川星巌ら尊王派の学者たち、そして、薩摩藩の西郷吉之助や越前福井藩の橋本左内らでした。そんな彼らの働きによって、井伊の下した決断に激怒していた孝明天皇(第121代天皇)より、井伊政権による通商条約無勅許調印を非難し、再度、条約問題を評議せよと命じる勅書が、8月8日にまず水戸藩へ、そして2日後の8月10日に幕府に下されました。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。
これは、朝廷と諸藩との直接的な結びつきを禁じていた幕府にとって、とうてい無視できる問題ではありませんでした。この情報を知った直弼は「これは反乱である!」と大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といった噂が広まります。こうなると井伊は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜ら密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、「安政の大獄」がはじまります。
「安政の大獄」で行われた処分は、切腹1名、死罪6名、獄門1名、その他、遠島、追放、所払い、押し込め、手鎖など、実に100名以上が刑に処せられました。逮捕者第1号だった梅田雲浜は、激しい拷問を受けたすえに獄中死。また、公家たちも処分の対象となり、前関白の鷹司政通、左大臣の近衛忠熙、右大臣の鷹司輔熙、前内大臣の三条実万らは剃髪して引退、その他、公家の家臣たちが芋づる式に逮捕され、京の六角牢屋敷は満杯となります。また、ドラマに登場していた越前福井藩士の橋本左内は、将軍継嗣問題の慶喜擁立に最もはたらいたとみられ、伝馬町牢屋敷で斬首となりました。享年26。本人も死罪は予想しておらず、最後はその無念さから、泣きじゃくりながら死んでいったと伝わります。その最後の言葉は、「人間おのずから用に適する所あり、天下何ぞなすべき時なからむ」だったといいます。また、同じ伝馬町牢屋敷では、長州藩士の吉田松陰も斬首されました。
この弾圧は藩主レベルにも及び、井伊の最大の政敵であった徳川斉昭は永蟄居を命じられました。また、蟄居謹慎処分を受けたのは、松平春嶽、徳川慶篤、徳川慶勝、伊達宗城、山内容堂ら一橋派の諸藩主たち、そして、一橋派に担がれていた徳川慶喜も処分の対象となり、蟄居生活を余儀なくされます。慶喜にしてみれば、自身の意に反して勝手に次期将軍候補に担ぎ上げられ、その担ぎ手らに連座して処分されたことは、納得できなかったでしょうね。慶喜の後年の回顧談によると、この処分には承服し難かったため、血気盛りの意地もあって、徹底した謹慎生活を送ったといいます。ドラマで描かれていたように、昼間も居間の雨戸を閉じてその中で生活し、麻上下を着用し、夏の暑さにも沐浴せず、月代も剃らなかったようです。無言の抗議ですね。のちに慶喜は「強情公」とあだ名されたといいますが、その一端がここに見られます。余談になりますが、後年、鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」の汚名を着せられた慶喜は、江戸に逃げ帰って謹慎し、一切の抗弁をせず、生涯、無言を貫きますが、あれも、あるいは無言の抗議だったのかもしれません。
さて、「安政の大獄」だけで長くなっちゃいました。「桜田門外の変」は明日、「その2」にて。
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by sakanoueno-kumo | 2021-04-12 15:48 | 青天を衝け | Trackback | Comments(0)