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青天を衝け 第9話「栄一と桜田門外の変」 その2 ~井伊直弼と徳川斉昭の死~

 「その1」のつづきです。 

 「安政の大獄」によって藩主父子の徳川斉昭・慶篤が処罰され、幕府より勅諚返上命令を受けた水戸藩内では、大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、33日上巳の節句の日、登城する井伊直弼桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。

青天を衝け 第9話「栄一と桜田門外の変」 その2 ~井伊直弼と徳川斉昭の死~_e0158128_20590455.jpg この年の安政733日は、現在の暦でいえば324日で、早ければが咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに斬りつけられます。駕籠内にいた直弼は、ドラマのとおり、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。作家の故・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、このエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは間違いないでしょうね。


 井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

 私は、そのどちらでもないと思います。開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。彼は朝廷の反対を押し切って開国したものの、別に開国思想家でもなく、それどころか極端な保守主義で、洋化思想を嫌い、幕府の軍備を再び旧式に戻したり、幕府の外国方の秀才たちを大量にリストラしたりしています。彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

 私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、吉田松陰を殺したことだと思います。松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。

 いずれにせよ、「安政の大獄」「桜田門外の変」という2つの大きな事件を引き起こした井伊直弼は、歴史を大きく動かした人物であることは間違いありません。


青天を衝け 第9話「栄一と桜田門外の変」 その2 ~井伊直弼と徳川斉昭の死~_e0158128_16030862.jpg 井伊の死は、その後しばらく秘匿され、公表されたのは2ヶ月後の閏330日のことでした。これで井伊によって処分された徳川斉昭らが直ちに赦免になったかといえば、そうもいかず、彼らの謹慎が解かれたのは94日になってからのことでした。幕府にしてみれば、大老が暗殺されてすぐに方針を転換するというのは、威信が保たれないと考えたのでしょう。ところが、皮肉なことにその少し前の815日、肝心要の斉昭が急死してしまいます。享年61。ドラマで描かれていたように、月見の宴の最中、に立ったあとに倒れたと伝えられます。死因は心筋梗塞と推定されていますが、その死があまりにも突然だったことから、井伊の彦根藩士が復讐として暗殺したのではないかという噂が流れたといいます。阿部正弘、島津斉彬、井伊直弼、そして徳川斉昭と、黒船来航以来、嘉永、安政の歴史の舞台を賑やかしていた役者たちが短期間で次々に死んでいき、歴史は慶喜らが主役となる舞台に入っています。



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by sakanoueno-kumo | 2021-04-13 23:44 | 青天を衝け | Trackback(1) | Comments(2)  

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Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2021-04-21 19:14
タイトル : 大老、井伊直弼の歴史的位置付け
井伊直弼という人物が居ます。ご承知の通り、彦根藩主であると同時に桜田門外の変で暗殺された江戸幕府の大老だったわけですが、彼の暗殺は、あの司馬遼太郎氏をして「時代が10年進んだ」と言わしめたほど、その存在は時代に逆行していたと言われています。しかし、彼の思想自体は保守的であったとしても、彼の採った政策は、後の明治政府ともさほど大きな隔たりがあったようには感じられません。(この点では、「航海遠略策」を掲げながらも攘夷の声に押され、非業の死を遂げた長州藩の長井雅楽も同様ですが・・・。)そう考えれば、果たし...... more
Commented by heitaroh at 2021-04-21 19:11
今回の井伊はこれまでと違い、独断専行ではなく、むしろ、ちょっとお調子者で、将軍の意向に縛られた結果の少し気の毒な立場・・・という描かれ方でしたよね。
少しだけ新鮮だったのですが、今の史観はそうなっているんですか?
ちなみに、先日、「うちの高祖父は安政生まれだけど、残念ながら井伊大老には会ってない」と友達に言ったら、「以前お話を伺っていたら申し訳ないのですが・・・おたくの家系は井伊直弼と近い家系だったんですか?」と言われました。
近いわけないだろ・・・と😅
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-04-21 23:46
> heitarohさん

そうでしたね。
今の史観の主流がどうなのかは私もよく知りませんが、チャカポンの評価は歴史家さんによって様々というのは言えると思います。
私的には、あまり評価は高くありません。
本文中でも述べましたが、彼は朝廷の反対を押し切って開国したものの、別に開国思想家でもなく、それどころか極端な保守主義で、洋化思想を嫌い、幕府の軍備を再び旧式に戻したり、幕府の外国方の秀才たちを大量にリストラしたりしていますよね。
チャカポンといわれたぐらいですから、茶道や和歌など文化的な素養には長けた人だったのでしょうが、政治家としての行政能力に長けた人ではなかったんじゃないかと。

ちなみエピのご友人の着眼点がよくわかりません(笑)。

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