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青天を衝け 第10話「栄一、志士になる」 ~和宮降嫁と坂下門外の変~

 「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は急速に失墜していきました。そこで幕府は、朝廷と手を結ぶことで権威の回復を図ろうとします。従来、朝廷は政治との関わりを規制されていましたが、黒船来航以来、にわかに高まった尊王思想大政委任論などにより次第に潜在的地位が高まり、さらに日米修好通商条約をめぐる論争・政治工作のなかで、老中・堀田正睦が反対勢力を抑えるために孝明天皇(第121代天皇)から勅許を得ようとしたことから、天皇および朝廷の権威は急速に上昇していきました。

 青天を衝け 第10話「栄一、志士になる」 ~和宮降嫁と坂下門外の変~_e0158128_15371949.jpgそんななか、朝廷と結束することで幕府の権威低下を防ごうという「公武合体論」が浮上します。井伊の死後、幕政の中心となっていた老中・安藤信正久世広周らは、第14代将軍・徳川家茂の正室に、孝明天皇の腹違いの妹・和宮親子内親王を迎えようという策をすすめます。後世にいう和宮降嫁ですね。皇女を将軍家御台所に迎えたいという案は、井伊直弼生存中からありましたが、当時の案は幕府が朝廷を統制する手段として考えられていたもの。しかし、この段に及んでの婚姻の意図は、いわゆる「公武合体」、すなわち、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、幕府にとってみれば藁をもつかむ策だったわけです。


ところが、当の和宮が、当初、この話を激しく拒んだといいます。というのも、皇女が将軍家に嫁したという例は第3代将軍・徳川家光以来なく、彼女にとって江戸の将軍家など野蛮な東戎という認識でしかなかったでしょうし、何より、彼女は代々親王家をつとめる有栖川家の皇子・有栖川宮熾仁親王と幼いときから婚約していました。しかし、兄の孝明天皇の強い意向をうけて、ついに徳川家への降嫁を承諾しました。この婚礼は、天皇にとっても、幕政への発言権を強めるという意味では大きなメリットがあったわけです。


文久元年1020日(18611122日)、16の花嫁・和宮の行列が京の都を出発。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列の長さは50kmに及んだといいます。和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられたほか、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたといいます。行列が1日に進む距離は五里だったそうで、京都を出てから25日ほど過ぎた1115日、一行は江戸城内の清水屋敷に入り、そこで1ヵ月近く過ごし、1211日、和宮は江戸城本丸大奥に入り、婚礼が行われたのは翌年の211日のことでした。


青天を衝け 第10話「栄一、志士になる」 ~和宮降嫁と坂下門外の変~_e0158128_15451837.jpg この和宮降嫁は、尊王攘夷派の志士たちの激しい批判の的となりました。尊攘派は、幕府は和宮を人質にして天皇に譲位を迫るつもりだと考えます。そこで彼らは、和宮降嫁の中心となって進めた安藤信正暗殺する計画を企てます。その首謀者は、野村彝之介、原市之進、下野隼次郎、住谷寅之介らの水戸藩士を中心に、ドラマに出てきた宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵らでした。大橋訥庵は、幕府の否定を説く王政復古論者で、立案の中心人物となり、安藤の斬奸趣意書も執筆したとされています。襲撃日は文久2115日(1862213日)に決定しますが、しかし、決行直前の112日に計画の一部が露見し、大橋は幕吏によって捕縛されてしまいました。そのため計画は大きく狂ってしまうも、予定どおり、115日に襲撃を決行。襲撃メンバーは水戸藩浪士の平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三(ドラマで眼帯をつけていた隻眼の男)、越後の医師・河本杜太郎6人。水戸藩浪士の川辺左次衛門も加わる予定でしたが、遅刻したため襲撃に参加出来ませんでした。


 襲撃は桜田門外の変と同じく、安藤の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、まずは直訴を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕籠に向けて銃撃します。しかし、弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込みますが、結果は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死しました。失敗に終わった理由は、メンバーが少人数だったことと、何より、桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、この日も供回りが50人以上いたことにありました。警備側は負傷者こそ出したものの死者は一人もおらず、当の安藤信正も軽傷だったようです。遅れてきた川辺は、長州藩邸に桂小五郎を訪ねて斬奸趣意書を手渡したのち、切腹します。これが、後世にいう「坂下門外の変」です。


 渋沢栄一が従兄弟の尾高長七郎に刺激を受け、父に頼んで短期間の江戸遊学をしたのは、和宮降嫁の少し前の文久元年(1861年)春先のことでした。このとき栄一22。ドラマでは、大橋訥庵思誠塾に通っていましたが、実際には、儒学者・海保章之助の塾に通い、また、お玉が池の千葉道場にも通って剣術を学びました。わずか2か月間の江戸でしたが、そこで栄一は尊攘派志士たちと交わり、大いに刺激を受けたようです。


また、ドラマで描かれていた、尾高長七郎が安藤信正襲撃に加わろうとしていて思いとどまったという話は、実話です。当時、長七郎は江戸遊学中に多くの尊攘派志士たちと交流を持ち、非凡な剣術の腕前もあってその名声が高まっていました。郷里に帰った長七郎が、兄の尾高新五郎、従兄弟の渋沢喜作、そして栄一にこの計画を打ち明け、三人で話し合ったという話も実話です。協議の結果、今、安藤を殺したところで、また、第二、第三の安藤が現れるだけで、もっと抜本的な大計画を講じない限り、何も変わらない、安藤一人の命のために長七郎が命を賭けるのは愚だ、という結論に達し、長七郎もその説に従いました。ここで栄一らと話し合わなければ、長七郎は坂下門外に散っていたか、あるいは大橋らとともに幕吏によって捕縛されていたかもしれませんね。その後、上述したように坂下門外の変が発生し、長七郎にも嫌疑がかかり、手計村にも幕吏の手がのびます。今週はここまででした。


 桜田門外の変は幕末の物語では必ず描かれますが、坂下門外の変は、これまであまり詳しく描かれたことはなかったように思います。今回は長七郎が関わっていたということで、しっかり描かれました。それにしても、第10話まで観てきて、このドラマは史実通説をちゃんと描いていて、フィクション部分も無理がなく、実にいいですね。政治の世界にのめり込み始める栄一を見て不安な表情を浮かべながらも、余計なことを言わない千代の女性像も素晴らしい。その息子を苦々しく見つめる父の表情もまたいい。これは、名作になるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2021-04-19 15:47 | 青天を衝け | Trackback | Comments(2)  

Commented by kumikokumyon at 2021-04-20 11:00
坂下門外の変は知りませんでした、あれは誰が考えても時期をもう少しずらすか周到な計画を立てるかしないと、でしたね。

栄一がかかわっていたら後々の日本の発展も遅れていたかもしれません。

千代さんは適役ですね、ぐっと思いを押し殺す雰囲気が良く出ています。現在も思ったことをすぐに口に出すオナゴはあきませんね(自戒)

それと慶喜演じる草彅君もどーなるかなーって思っていましたが好演してますね。これからの展開が楽しみです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-04-20 20:54
> kumikokumyonさん

「坂下門外の変」って、たしかにあまり知られていないようですね。
「桜田門外の変」の二番煎じのような扱いですからね。
失敗してるし。
似たような例でいえば、この少しあとの「天誅組の変」はけっこう知られていますが、「生野の変」はあまり知られていません。
これも、後者は二番煎じですからね。
で、だいたいの場合、二度目はうまく行かないというのも同じです。

>慶喜演じる草彅君もどーなるかなーって思っていましたが好演してますね。

ですよねー!
めっちゃ貴公子って感じで、いいですね。
何年か前の『西郷どん』のヒー様とはえらい違いです。
脚本も時代考証もしっかりしていて、慶喜の言動もほぼ記録どおりで、スゴイです。
欲をいえば、もう少し毒があってもいいかとは思いますが。
わたしが思う慶喜像は、頭が良すぎて、ちょっと人を下に見てしまうようなところがある、そんなイメージです。
近年の大河の慶喜でいえば、『八重の桜』のときの小泉孝太郎さん。
キャラも良かったですが、なんと言っても顔がソックリでした(笑)。
あんな顔ですよね? 慶喜(笑)。
育ちのいい貴公子ってとこも、かぶってましたしね。

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