桃太郎伝説の地、鬼ノ城跡を歩く。 その4 <南門・第3水門>
「その3」のつづきです。
鬼ノ城南門にやってきました。

敷石の向こうに角材の柱のようなものが見えます。

神籠石状列石が整然と並んでいて、一段下がったところに敷石があります。

後ろのスペースが狭くて、引きの写真が撮れません。

説明板です。
発掘調査時の写真と図面が載せられています。

説明板によると、南門は間口3間(12.3m)、奥行2間(8.2m)の規模を持ち、一辺55cmの前後の巨大な角柱12本で上屋を構成する大型の城門だそうです。
規模的に言えば、「その2」で紹介した西門と、ほぼ同レベルということですね。

門の入口は、2m近い段差を設けた懸門で、中央1間(約4m)を城内への通路としています。

石段は等間隔にきれいに積まれています。

床には巨石が敷き詰められています。

その両側には、木板の壁が復元されています。

外側から見た城門。
これも、もっと引きの写真を撮りたいのですが、これ以上後ろに下がると崖から転落します(笑)。

城門が復元された西門と規模的には同じで、往時はどちらが正門だったのか、わかっていないそうです。

南門を後にして、東へ進みます。

また、「その3」で見たような展望スペースに出ました。

パンフレットの案内図によると、ここも、この下に高石垣があるようです。
土嚢はおそらく石垣の崩落を守っているのでしょう。

恐る恐る覗き込んでみました。

あります! 高石垣。

木々がなければ、もっと石垣が露出して見えるのでしょうけどね。

少し進むと、また敷石の通路があります。

「敷石」と書かれた立て札が見えます。
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石が敷き詰められていて、幅は基本的に1.5m幅だそうですが、広いところでは5m幅にもなるところもあるそうです。

この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、その傾斜などからみるに、もともとは雨水等から城壁を守るために敷かれたものと考えられるそうです。
敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例しか見られない稀有なものだとか。

敷石の遺構から少し坂を下ると、水路に木橋が架けられています。

案内図によると、ここは第3水門のようです。
鬼ノ城には6カ所の水門が設けられています。

水門の下を覗き込むと、やはり、第1・2水門と同じく石垣があるようです。

下に降りて来ました。
立派な石垣です。

自然石を積み上げたような石垣ですが、戦国時代の石垣ではないので、野面積みとはいいません。

「その3」でも紹介したとおり、古代の石垣を神籠石状列石といいます。
「神籠石」をネットで調べてみると、列石遺構を伴う古代の山城を意味する歴史用語だそうで、当て字で皮籠石・交合石・皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分かっていないそうです。
なるほど、皇后石ですか。
この時代の皇后といえば、天智天皇(第38代天皇)の皇后は倭姫王、その弟の天武天皇(第40代天皇)の皇后は有名な鸕野讃良皇女、のちに女性天皇となる持統天皇(第41代天皇)ですね。
鬼ノ城とは関係ありませんが、そんな時代に築かれた城です。

先に進みましょう。

またまた、高石垣のある展望台に出ました。

ここはけっこう広いスペースです。

眼下にゴルフ場が見えます。
鬼ノ城ゴルフ倶楽部だそうです(笑)。
もちろん、あそこは古代の遺蹟ではありません(笑)。

背後には大きな岩があります。


岩には石仏が刻まれています。
いつの時代のものでしょうか?

「内側列石」と書かれた立て札が。

ここは屈折しているので、下の高石垣が斜めから見れます。

その向こうには、東門が見えます。

東門にズーム。
今からあそこに向かいましょう。

さて、今回もまた少ししか進みませんでした。
最後にパンフの案内図を載せます。

「その5」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-04-23 00:09 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)