桃太郎伝説の地、鬼ノ城跡を歩く。 その7 <温羅旧跡~北門>
「その6」のつづきです。
屏風折れ石垣の曲輪から北に向かって少し歩いたところに、「温羅舊跡」と刻まれた大きな石碑があります。

温羅(うら)とは、「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、桃太郎伝説の鬼のモデルとなった人物で、古代吉備地方の統治者であったとされます。
伝承によると、大和朝廷より派遣された吉備津彦命(きびつひこのみこと)によって退治されたといわれ、これが、桃太郎伝説のモチーフになったと言われています。

『鬼ノ城縁起』には、次のように記されています。
異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた」
吉備の人々の訴えを聞いた崇神天皇(第10代天皇)は孝霊天皇(第7代天皇)の子で四道将軍のひとりである五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を派遣しました。
五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構え、温羅に対して矢を1本ずつ射るも温羅はその都度石を投げて撃ち落としたといい、そこで命が2本同時に射たところ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左眼を射抜きました。
すると温羅は雉に化けて逃げたので、五十狭芹彦命は鷹に化けて追うと、さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変化して、ついに捕らえます。
そこでようやく温羅は降参し、「吉備冠者(きびのかじゃ)」の名を五十狭芹彦命に献上したといいます。
これにより、五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになったそうです。

これらは全て伝承であり、裏付ける史料はいっさいありません。
そもそも、鬼ノ城は7世紀後半の白村江の戦い後に築かれた城といわれていますから、崇神天皇の時代とは合いませんし、そもそも崇神天皇は実在したかどうかもわからない天皇。
吉備津彦命も温羅も、実在していたかどうかはわかりません。

もっとも、吉備地方には大きな古墳が数多く残っており、古代吉備には、畿内のヤマト王権に対抗しうる強力な王権(吉備政権)があったのではないか、という学説もあるそうで、そこから想像するに、あるいは、古代にヤマト王権が吉備政権を滅ぼしたという歴史があり、それが、温羅と吉備津彦命の伝説に姿を変えた、という想像を膨らますことは出来るかもしれません。
ロマンが広がりますね。

温羅旧跡をあとにして、北に向かいます。

「土塁」と書かれた立て札があります。

土塁の長さは49mあるそうです。

土塁の上に登ってみました。

土塁の北側に、石積み跡が。

どう見ても自然石ではないですよね。

このあたりには、巨石が散乱しています。
これは、石垣の名残でしょうか?

案内図があります。
最北端にやってきました。

そして、ここが鬼ノ城4つの門の最後、北門です。

北門の説明板です。
他の門と同じく、発掘調査時の写真があります。

きれいに復元整備されていますね。

基本的な構造は他の3つの門と同じ掘立柱城門で、規模的には、大型の西門、南門に対し、東門とともにやや小型の城門です。

通路床面には、大きな石が敷かれています。
門柱は本柱のみ角柱で、他は丸柱であり、柱間の寸法も異なるなど、得意な組み合わせです。
通路床面下には「排水溝」が設けられているそうで、これは日本の古代城では初の発見例だそうです。

通路床面とその前面の地面に1.7m~2.3mの段差があり、こうした城門を朝鮮半島では「懸門」と呼ぶそうです。

外側には、きれいに敷石が続いています。

外側から見た北門です。

北門から城壁の外側を見ると、大きな石が散乱しています。
おそらく石垣が崩れた跡でしょうね。

ズームしてみると、部分的に石垣が残っています。

さて、北門まで制覇しました。
このまま西門に戻れば1周したことになりますが、せっかくなので、城域内部にも行ってみましょう。
「その8」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-04-29 23:59 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)