人気ブログランキング |

青天を衝け 第12話「栄一の旅立ち」 ~平岡円四郎との出会いと挙兵断念~

青天を衝け 第12話「栄一の旅立ち」 ~平岡円四郎との出会いと挙兵断念~_e0158128_16424734.jpg高崎城乗っ取り、横浜居留地の焼き討ちという過激な計画を企てていた渋沢栄一は、父の許しを得た翌日、さっそく従兄弟の渋沢喜作とともに江戸へ出かけ、挙兵の準備を急ぎました。その江戸滞在中、徳川御三卿の一角である一橋家の用人・平岡円四郎の知遇を受けることとなります。この話は、栄一の息子・渋沢秀雄の著書『父 渋沢栄一』に記されているので、おそらく実話でしょう。ドラマではたった1回だけの出会いでしたが、栄一の自伝『雨夜譚』によると、たびたび平岡邸に通って懇意になっていたようで、書生談が好きだった円四郎は、栄一らを大いに気に入り、「足下らは農民の家に生まれたということであるが、だんだん話を聞いて談じ合ってみるといたって面白い心がけで、じつに国家のために力を尽くすという精神が見えるが、残念なことには身分が農民では仕方がない、幸いに一橋家には仕官の途あろうと思うし、また拙者も心配してやろうからすぐに仕官してはどうだ」と、仕官を勧めたといいます。しかし、このときは挙兵の企てがあったため、断りました。ただ、「いずれまた縁があれば、その節は・・・」といったふくみを残した別れだったようです。この出会いが、のちの栄一の運命を大きく変えることになるわけですが、このときの栄一は、そんなことは知る由もなかったでしょうね。


 挙兵の準備をしていた栄一らは、京都にいる尾高長七郎に飛脚を送り、挙兵に力を貸すように促します。そして文久3年(1863年)10月下旬、その長七郎が帰郷。そこで1029日の夜、尾高新五郎宅にて挙兵打ち合わせの秘密会議を開きました。メンバーは新五郎、長七郎、栄一、喜作、真田範之助、中村三平の6人。ところが、最も期待していた長七郎が、挙兵計画に真っ向から反対します。曰く、「無謀きわまる愚挙であり、百姓一揆にも劣る」と。


これより2か月前の文久3年(1863年)8月18日、京都では一大政変がありました。同年510日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰をうけた長州藩は、以後、朝廷のまつりごとに何かにつけ口を出すようになります。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した「公武合体派」中川宮朝彦親王近衛忠熙、近衛忠房らが、この当時、御所の警備を任されていた薩摩藩、会津藩と手を結び、「攘夷派」三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿とともに京を追われます。世にいう「八月十八日の政変」ですね。また、長州藩に呼応して大和で挙兵した浪士たち天誅組も、八月十八日の政変によってはしごを外されたかたちとなり、たちまち壊滅しました(天誅組の変)。昨日の義挙が、一夜にして暴挙となったわけです。


青天を衝け 第12話「栄一の旅立ち」 ~平岡円四郎との出会いと挙兵断念~_e0158128_00494714.jpg 皮肉にも、この政変を最も望んでいたのは、先の攘夷決行の勅許を出した孝明天皇でした。孝明天皇が望んだのはあくまで幕府による攘夷で、過激な長州藩の行動には恐怖すら感じていました。帝を尊び、帝の為に命をも惜しまなかった長州志士たちは、帝の意向によって朝敵にされてしまいます。京から長州藩が一掃されると、孝明天皇は本心を明らかにする宸翰(しんかん)を発布します。


 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事。」


 今までの「勅」は全部インチキだというんですね。長州藩にとっては全く寝耳に水だったでしょう。そもそも彼らが藩をあげて戦ったのは、天皇の「勅」を奉じて幕府が510日を攘夷決行の日と諸藩に通達したからであり、諸藩の中で最も純粋に天皇の「勅」を重んじた長州藩が、実は天皇から最も疎んじられる結果となったわけです。孝明天皇にとって過激なラブコールを贈る長州藩は、ある種ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。


そんな文久2年(1862年)から同3年の京都の情勢を見てきた長七郎は、栄一らよりはるかに世の動きが見えていました。しかし、決死の覚悟を決めていた栄一らも、簡単には引き下がれない。議論は夜を徹して交わされ、ドラマにあったように、長七郎は栄一と刺し違えてでも暴挙を阻止するといい、双方相譲らず、血眼になって論じたといいます。しかし、空理空論の栄一らの主張と違って、長七郎の自重論は京の情勢を根拠としていただけに、説得力がありました。両者の議論を静かに聞いていた新五郎は、次第に長七郎の自重論に傾き、再考する必要があると発言します。栄一も、言うべきことを言いつくして冷静になって考えてみると、長七郎の論に道理があると肯定せざるを得ませんでした。そして長い議論は終わり、挙兵は中止となります。


 このときのことを、栄一は自伝『雨夜譚』でこう語っています。


 「今日からみるとそのとき長七郎の意見が適当であって、自分らの決心はすこぶる無謀であった。じつに長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれたといってよい」


 たしかに、長七郎の説得がなければ栄一も喜作も新五郎も命を落としていたかもしれませんが、ただ、頑固に意地を張らず、長七郎の意見の道理を理解して思いとどまる賢明さ持っていた栄一らも、さすが一流の人物だったといえるでしょうね。


 挙兵を思いとどまった栄一と喜作は、このまま郷里にいるのは危険と判断し、京都へ行くことにしました。このとき、父の市郎右衛門餞別として百両という大金をくれたそうです。


 「オラァこの歳になるまで、孝行は子が親にするものとばかり思っていたが、親が子にするものだったとはなぁ」


 ドラマで栄一に餞別を渡した市郎右衛門が言った台詞ですが、この台詞は栄一の息子・渋沢秀雄の著書『父 渋沢栄一』に記されています。秀雄曰く、「この皮肉な言葉は、子の人格が完全に父から独立したことを意味すると同時に、家族制度を越えて個人の自由が確認されたことでもある。」と述べており、また、「思い出」として、「以前私がこの話を書いたとき、久保田万太郎先生(大正・昭和期の小説家、劇作家)が、『ここは芝居になりますね』と言われたことを覚えている」と記しています。令和の世で本当に芝居になりましたね。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2021-05-03 00:50 | 青天を衝け | Trackback | Comments(4)  

トラックバックURL : https://signboard.exblog.jp/tb/29508299
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Commented by H77119714T at 2021-05-03 10:57
昨日のドラマを思い浮かべながら非常に楽しく読ませていただきました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-05-03 21:27
> H77119714Tさん

ありがとうございます。
恐悦至極です。
Commented by kumikokumyon at 2021-05-07 10:44
予告編にちらっと「おディーン様」が現れたような!
次回に早くも登場でしょうか?11月くらいに出てくるかなーって思っていたので嬉しい誤算です。

お父さんから百両の餞別、今でいうといくらくらいなのでしょうか?中国でもそうです、周恩来にしろ毛沢東にしろお金持ちの子息ですもんね。変革や革命もお金があって余裕がないとできません。

中止になった焼き討ち、あの場面を見て天皇陛下のためにと集結したのに行き成り反逆者と言われた2.26事件がかぶりました。

遅コメなのにいろいろ書いてごめんなさい(汗)
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-05-07 23:53
> kumikokumyonさん

「おディーン様」って言うんですね(笑)。
朝ドラのときは五代様だったと思いますが、いつのまにかご本人様になっちゃってるんですね(笑)。

>百両の餞別、今でいうといくらくらいなのでしょうか?

江戸時代の1両は13万円~18万円といわれますので、1300万~1800万ぐらいでしょうか。
当時の庶民は1両あれば1ヵ月暮らせたといいますから、10年以上暮らせるお金ですね。
ネタバレになりますが、栄一はこの百両を京都で短期間に使い果たしちゃいます。
さすが、ボンボンは金銭感覚がマヒしてますね。
おっしゃるように、同時代でいえば、坂本龍馬も金持ちのボンボンで、活動資金は実家に無心すれば湯水のごとく援助してもらえる境遇にありました。
やはり、金に糸目を付けない人物でなければ、大仕事はできませんね。
どうりで貧乏性のわたしはうだつが上がらないはずです(苦笑)。

<< 周匝茶臼山城跡を歩く。 その1... 桃太郎伝説の地、鬼ノ城跡を歩く... >>