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青天を衝け 第13話「栄一、京の都へ」 ~栄一の上洛と長七郎の投獄~

 文久3年(1863年)118日、渋沢栄一渋沢喜作は血洗島村をあとにし、京都に向かうことにしました。栄一24、喜作26のときでした。もっとも、京都に行くには途中の関所を越すための手形がいります。そこで彼らは、まず江戸に立ち寄ります。かねて知遇を得ていた平岡円四郎を頼り、京都に行くための手助けをしてもらうためでした。あいにく円四郎は京都に行って不在だったものの、奥方より平岡円四郎家来名義の手形をもらうことができ、京都を目指します。


青天を衝け 第13話「栄一、京の都へ」 ~栄一の上洛と長七郎の投獄~_e0158128_16424734.jpg 故郷を出てから18日目の1125日、栄一らは京都に着きました。そして二人は、さっそく都の情勢を知るべく、諸国の藩士や天下の志士たちを訪問し、交際を始めました。栄一は父からもらった100の金のうち、30を江戸と道中で使ったそうです。ドラマでは描かれていませんが、栄一の息子・渋沢秀雄の著書『父 渋沢栄一』によると、江戸に立ち寄った際には生まれて初めての吉原遊びもしてようです。京でも、旅籠代交際費で瞬く間に浪費し、年末にはもはや残り少なくなっていました。そこで栄一は、その正月、一橋家家臣の猪飼正為から25両の借金をしたようです。一方で、二人が泊まっていた旅籠は、一般的な宿よりずいぶん高い宿泊費の旅籠だったとか。このあたりは、やはり、大百姓のボンボンだったということでしょうね。


青天を衝け 第13話「栄一、京の都へ」 ~栄一の上洛と長七郎の投獄~_e0158128_16512779.jpg 栄一らが京都に入った翌日の文久3年(1863年)1126日、徳川慶喜も京都に入ります。以後、慶喜は鳥羽伏見の戦い後まで京阪地域にとどまることになるのですが、もっとも、これは当初から予定されていたことではなく、最初は数か月程度の滞在予定だったはずが、諸々の情勢が慶喜の江戸下向を許さず、足掛け6年に及ぶことになります。


 文久3年も押し詰まった12月晦日、慶喜は松平容保、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂とともに朝廷から朝議参預に命じられ、小御所や二条関白邸で開かれることになった朝議に参画することになります。世に言いう参預会議ですね。これは、もともと薩摩藩国父の島津久光のはたらきかけによって出来たポストで、久光は、朝廷、幕府、有力諸藩が集って政を行う合議制会議の必要性をかねてから主張していました。もっとも、この参預会議はあっという間に瓦解してしまうのですが、それは次週描かれるようですね。


 天下の志士たちと交際して世の動きを見た栄一と喜作は、郷里の尾高長七郎へ手紙を送り、幕府の命運も尽きつつあるから、長七郎も至急上京して共に倒幕運動を画策しようと促しました。その数日後、長七郎からの返事が届きます。その手紙には、思いもよらぬ変事が記されていました。長七郎は同士の中村三平福田義助の両人と共に江戸から郷里に帰る途中、戸田の原で誤って飛脚を殺害してしまい、三人とも幕吏に捉えられて江戸伝馬町の牢に入れられてしまったらしく、そのとき、長七郎の懐には栄一らが送った手紙があり、幕吏に押収されてしまったとのこと。これを読んだ二人が愕然としたことは言うまでもありません。栄一の自伝『雨夜譚』よると、喜作は今から江戸に行って三人を救い出そうと息巻いたようですが、栄一は自分たちが江戸へ行ったところで捕まりに行くようなものだといってこれを制止したといいます。賢明な判断だったでしょうね。


 翌朝、二人のもとに平岡円四郎から手紙が届きました。その内容は、相談したいことがあるから、すぐに来てくれというもの。行き場を失っていた二人は、すぐさま平岡を訪ねました。栄一の自伝『雨夜譚』によると、そこでの二人と円四郎のやり取りは、ほぼドラマのとおりです。円四郎は、栄一らに事態の経緯を問いただし、栄一らも、正直にそれを話しました。円四郎は、それを知ったうえで、仕官を勧めます。栄一らにとっては、それは渡りに船の話だったでしょうが、しかし、これまで攘夷倒幕をスローガンに行動してきた二人だけに、その誘いに乗るには大いなる矛盾が生じます。二人はこの勧めにどう答えるのか・・・というところで続きは次回になります。


 ちなみに、長七郎が飛脚を斬った理由は、本人の申し立てによると、一匹の狐が自分を目掛けて飛び掛かってきたので、思わず抜き打ちに斬って落としたら、それが人間だったと供述しています。長七郎は、栄一らの挙兵を阻止したあと、どうやら精神に異常をきたしていたともいわれます。おそらく、たまたま飛脚とすれ違った瞬間、病的な発作が長七郎に狐の幻覚を起こさせたというのが真実だったのかもしれません。現代でも、鬱病などの精神疾患に悩む人は、根っから生真面目な性格の人が多いと聞きます。きっと長七郎は、ピュアで生真面目な性格の人で、ドラマで描かれていたように、坂下門の変で同志たちと行動を共にできなかったことが、ずっと心のわだかまりになっていたのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2021-05-09 23:04 | 青天を衝け | Trackback | Comments(2)  

Commented by こにゃんた at 2021-05-10 19:02 x
初めてコメントします。
番組で描かれた場面、更には描かれなかった場面にまで掘り下げて下さり、毎回楽しみに読まさせて頂いてます。

今回の幻の狐の描写ですが、史実なのでしょうか?
自分でも気になって調べて見たのですが、キツネが化けて出たという説と役人が追ってきたので咄嗟に斬ったという説もあるようですし。

答えにたどりつかなくて…

こちらでは自信もってキツネで書かれてるようでしたので質問させて頂きました。

Commented by sakanoueno-kumo at 2021-05-10 22:28
> こにゃんたさん

コメントありがとうございます。
また、毎回読んでいただいるとのこと、恐悦至極です。

幻の狐の描写については、本文中でも述べたましたが、栄一の息子・渋沢秀雄の著書『父 渋沢栄一』によると、一匹の狐が自分を目掛けて飛び掛かってきたので、思わず抜き打ちに斬って落としたら、それが人間だった、と本人が供述しているそうです。
ただ、この供述が事実か、それとも嘘の供述か、あるいは気がふれていたのか、真実はわかりません。
おそらく長七郎以外、誰にもわからないんじゃないでしょうか?

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