近江国境目の城・鎌刃城跡攻城記。 その4 <主郭>
「その3」の続きです。
鎌刃城跡北Ⅰ郭の南に主郭があります。
上の写真は北Ⅰ郭から見上げた主郭切岸。
ここを登ります。
道中の斜面には、かつて石垣があったのであろう痕跡が散在しています。
発掘調査によると、主郭北側斜面では虎口につながる通路遺構の存在が明らかとなったそうで、これは「城道」と呼ぶにふさわしい本格的なもので、全国的に見ても中世の城郭で確認された例はほとんどないそうです。
織田信長の安土城をはじめ、のちの近世城郭に見られる大手道に相当するものと考えられ、たいへん貴重な遺構だそうです。
主郭虎口下にやってきました。
土嚢が積まれているのは、上部の遺構が崩れ落ちないための補強でしょう。
かつては斜面全体が石積みで覆われていたと考えられています。
主郭虎口に登ってきました。
鎌刃城跡最大の見どころです。
石段の左右を枡形に石垣が積まれています。
手前に礎石跡のような2つの大きな石がありますが、これは城門の礎石跡だそうです。
発掘調査の結果、鏡柱と控柱の礎石が見つかっており、この枡形には薬医門が構えられていたと考えられているそうです。
虎口は枡形ですが、左右に折れ曲がらずに直進させる構造となっています。
これは、織豊期以降に見られる防御のために通路を屈折させるなどした軍事的に発達した枡形ではなく、主郭の城門としての威儀を示すための枡形であったと考えられています。
説明板です。
主郭虎口から望む北側の眺望です。
主郭には、石碑が建てられています。
その横には、「第1回鎌刃城まつり」と書かれた木碑が建てられ、その側面には、歴史家の小和田哲男氏の名前が。
鎌刃城跡は、小和田氏が理事長を務める日本城郭協会から平成29年(2017年)4月6日に発表された「続日本100名城」に選定されました。
主郭の調査では1間を6尺5寸(約195cm)とする礎石建物が検出されました。
建物は主郭南側に建てられており、北側は広場となっていたようです。
天文7年(1538年)には六角定頼が湖北に侵攻し、鎌刃城は二度に渡って攻撃されて落城します。
このときの合戦では、付近の太尾山城、磯山城、佐和山城もことごとく落城し、六角氏の属城となりました。
『嶋記録』によると、当時、鎌刃城の城主は京極高広方に属していた堀石見という人物だったようですが、六角氏は城代に家臣の島秀安を入れ、のちに堀氏は六角氏に降伏して鎌刃城主に返り咲いています。
当時の近江国は、六角氏、浅井氏、京極氏の勢力が拮抗する複雑な情勢でした。
主郭の南辺は石塁とし、多門櫓などが構えられていたようです。
主郭の周囲は360度石垣によって囲われていたことが明らかになっており、戦国時代にいち早く石垣を導入した先駆的な城郭だったといえるでしょう。
当時の技術の粋を集めた最先端城郭だったんでしょうね。
主郭だけで長くなっちゃいました。
「その5」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-05-26 22:56 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)