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青天を衝け 第16話「恩人暗殺」 ~栄一の関東出張と平岡円四郎の死~

元治元年(1864年)5月、渋沢栄一(篤太夫)渋沢喜作(成一郎)は、平岡円四郎より関東出張を命じられました。その目的は「人選御用」。一橋家に召し抱える価値のある有用な人物を集めてこい、というものでした。これは、栄一らがかねてから献策していたことであり、それを機に投獄されている尾高長七郎を救い出したいという考えもあったから、栄一らにとっては願ったり叶ったりの出張命令でした。


青天を衝け 第16話「恩人暗殺」 ~栄一の関東出張と平岡円四郎の死~_e0158128_16424734.jpg その出発当日、平岡が見送りに来たという話は実話のようです。この日、平岡は近郊散策と称して山科の蹴上まで先発し、そこの茶屋で栄一と喜作を待ち受けていました。そして、二人に送別の昼食をもてなしながら、志士募集の心得をさとしたそうです。これは、当時の慣例上、重臣軽輩の出張を公然と見送るわけにはいかなかったため、散策に名を借りて見送りにきたということだったようです。ドラマでも、そのように描かれていましたね。それだけ栄一と喜作が円四郎から買われていたということでしょうが、このエピソードからも、平岡円四郎という人がいかに器量の大きな人物だったかがわかります。見送られた栄一と喜作も、きっとその恩が胸にしみたことでしょう。まさか、これが今生の別れになろうとは、夢にも思わなかったでしょうね。


 関東に下った栄一らは、まず、かつて江戸遊学中に知り合った同士らを勧説しようと訪ねますが、彼らの多くは水戸の騒動に駆けつけてしまったあとで、あてが外れます。水戸の騒動とは、元治元年(1864年)3月、藤田東湖の子・藤田小四郎らが、水戸町奉行の田丸稲之衛門を主将と仰ぎ、攘夷を決行すべく常陸の筑波山にて挙兵した、いわゆる「天狗党の乱」のことです。当初62で挙兵した天狗党は、数ヶ月でたちまち700ほどに膨れ上がりました。彼らは、幕府に対して横浜鎖港の即時実施を要求します。ところが、彼らの一部が、攘夷決行の資金を調達するとも名目で、各所で献金の強要金品の強奪などを繰り返すという愚行にでます。幕府はこれを大いに問題視し、天狗党討伐軍を編成するとともに、水戸藩にも天狗党の鎮圧を命じました。これに対し、水戸藩内は保守派激派に分裂。事はいっそう重大化してしまいます。ドラマで、栄一らが真田範之助に激怒されたのは、そういう背景からでした。そこで栄一らは方針を変え、一橋領内をまわって40ほどの人材を集めます。二人は何とかお役目を果たしました。


 ところが、栄一らにその命令を発した当の平岡円四郎が、京にて暗殺されます。元治元年616日(1864719日)のことでした。円四郎はその夜、川村恵十郎と連れ立って一橋家の家老・渡辺甲斐守孝綱の宿を訪ねた帰路、突然、闇から出てきた暴漢に斬られて絶命します。襲ったのは水戸藩士の林忠五郎江幡貞七郎の二人。円四郎は右の肩先から左の肋まで斬り下げられ、ほぼ即死だったようです。川村もドラマのとおり顔面を斬られて負傷しました。暴漢の二人も重傷を負って死にます。


青天を衝け 第16話「恩人暗殺」 ~栄一の関東出張と平岡円四郎の死~_e0158128_16512779.jpg 平岡円四郎暗殺の理由は、徳川斉昭の息子で攘夷論であるはずの徳川慶喜が、いつまでたっても攘夷を実行しないのは、側近の円四郎が開国論で慶喜を惑わしているからだ、とする誤解からでした。いわゆる「君側の奸」ってやつですね。この点、昭和の二・二六事件における陸軍青年将校たちと重なります。また、この10日ほど前の65日に起きた池田屋の変で、新選組を使って攘夷派志士たちを殺させたのも円四郎だという風説が流れていたようで、それも引き金になったようです。円四郎はこの年、2月に側用人番頭を兼務となり、5月に一橋家家老並に任命され、62日には慶喜の請願により大夫となって近江守に叙任されるなど、破竹の勢いで出世していました。円四郎が奸臣とみなされたのは、この急激な出世に対する妬みもあったかもしれません。後年、栄一は円四郎の暗殺について、こう述懐しています。


 「この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。」


 あまりにも頭が良すぎたために、他人の意見を最後まで聞かずに先回りをし、そのため人から恨みを受けることも少なくなく、結果、殺されたのではなかっただろうか、と。ドラマの円四郎とは少し人物像が違う気がしますが、そういう一面もあったのかもしれませんね。


「天下の権、朝廷にあるべくして幕府にあり、幕府にあるべくして一橋にあり、一橋にあるべくして平岡、黒川にあり」と評された平岡円四郎。彼が活躍した期間は短かったため、残念ながら写真肖像画も残っていません。あまりにも惜しい死でしたね。もう少し長く生きていれば、慶喜のその後も、そして幕府の幕引きも、また違った歴史になったかもしれません。それにしても、来週から堤円四郎が見られないのは実に惜しい。しばらく円四郎ロスになりそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2021-05-31 20:43 | 青天を衝け | Trackback | Comments(0)  

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