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織田信長が眠る京都・阿弥陀寺。

本日62日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日。

つまり、織田信長の命日ですね(現代の暦でいえば、621日にあたりますが)。

そこで、今週は京都にある信長のお墓参りの稿をアップします。

まずは、京都市上京区寺町通にある阿弥陀寺

山門の横に、「織田信長公本廟」と刻まれた石碑が建っています。


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阿弥陀寺は、山号を蓮台山、院号は総見院という浄土宗の寺院です。

百万遍知恩寺の末寺で、京都四十八願寺巡拝の十六番札所です。


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「織田信長公本廟」と刻まれた石碑です。


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裏を見ると、「大正十三年四月七月建」とあります。


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阿弥陀寺は、天文24年(1555年)に清玉上人が近江国坂本に創建したのが始まりとされ、その後、織田信長の帰依を得て、上京今出川大宮に移転しました。

そのため、院号を信長の法名からとった捴見院といいます。


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ここを訪れたのは令和2年(2020年)1122日、本堂前の紅葉が綺麗です。


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本堂です。

ここに、織田信長、織田信忠父子の木像等が安置されているそうです。


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阿弥陀寺に収蔵されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によると、天正1062日(1582621日)未明に起きた本能寺の変の際、阿弥陀寺の清玉上人が僧徒を引き連れて現場に駆けつけると、武士たちが信長の遺骸を火葬してから自害しようとしていたそうで、それを聞いた清玉上人は、遺骨の供養、埋葬はわたしに任せてほしいと申し出たそうです。

その後、遺骨を持ち帰った清玉上人は、ひとまず遺骨を隠し、のちに寺院の僧たちだけで密かに葬儀を行ない、墓を築いて埋葬しました。

さらにのち、信忠の遺骨も二条御新造より拾い集めて、信長の横に埋葬したそうです。


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信長の墓碑は、境内左奥の墓地にあります。


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誘導看板があります。


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墓地の入り口の門。


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門をくぐると、まっすぐ伸びた石畳の道があり、その正面に古い墓石が見えます。


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ここが信長の墓です。


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右が織田信長、左が信長の嫡子・織田信忠の墓碑です。


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墓碑の右側面には、「天正十年」と刻まれています。


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左側面には「六月二日」の文字が。


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信長の墓碑の右下にも墓碑がありますが、これは誰のものでしょう?


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卒塔婆のなかには、「フジテレビ 世界の何だコレミステリー」とか、BS-TBSにっぽん歴史鑑定」とか、「関西テレビ 新説 所JAPANと書かれたものがあります。

テレビで取り扱うときは、こうして供養に来ているんですね。


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墓所の前に建つ石碑には、「織田信長信忠討死衆墓所」と刻まれています。

清玉上人は信長と信忠だけでなく、名もなき戦死者たち120余名の骨も持ち帰り、供養して埋葬したといいます。


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信長と信忠の墓の横には、本能寺の変の戦死者を弔う供養塔や、信長の息子・信貞の墓などが並んでいます。


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森蘭丸、森坊丸、森力丸などの名前が確認できます。

あとは読めないものが多い。


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墓地内の少し離れたところに、信長を供養、埋葬した清玉上人の墓もあります。


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信長の死後、山崎の戦いで明智光秀に勝利した羽柴秀吉は、信長ゆかりの阿弥陀寺にて葬儀を行なうことを告げますが、清玉上人は、すでに葬儀は済んだとして秀吉の申し出を辞退。

さらに、法要料ならびに御位牌前仏料として300石の御朱印が秀吉から差し出されたそうですが、これも辞退したそうで、仕方なく秀吉は大徳寺にて大々的に信長の葬儀を行いました。

と同時に、秀吉は協力しなかった清玉上人に恨みを抱き、天下人となったあと、阿弥陀寺を現在の寺町通りに移転させ、寺領を大幅に縮小させました。

そして、葬儀を行った大徳寺に総見院を建立し、そこを信長の菩提寺としました。

秀吉、根に持つタイプですね。


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寺領を縮小された阿弥陀寺はたちまち困窮しますが、それを経済的に助けたのが美作国津山藩主の森家だったそうです。

あの森蘭丸の親族ですね。

森家の援助のおかげで阿弥陀寺はなんとか維持できるようになり、4代藩主の森長成は、毎年62日に本能寺の変の犠牲者の法要を行い、信長公百年忌も執り行ったそうですが、森家の改易後は、経済的支援はなくなったそうです。


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信長の墓の背後には、普通の民家がありますね。

洗濯物を干しながら信長の墓を見下ろせるという(笑)。


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時代は下って大正6年(1917年)、信長に正一位の位階が追贈されることとなり、その際に行われた宮内庁の調査によって、ここが信長の廟所であると正式に認められたそうです。

それで、山門の横に「本廟」と刻まれた石碑が建てられたんですね。

調査って、どんな調査だったのでしょう?

墓を掘り起こしたというわけではないと思うのですが。

仮に掘り起こして遺骨を確認したとしても、DNA鑑定をしたわけでもないでしょうし。


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ちなみに、信長の廟所は他にも複数あり、有名なものとしては、上述した大徳寺総見院、それから現在の本能寺(かつての本能寺とは場所が違う)、そして安土城伝二ノ丸跡などです。

安土城伝二ノ丸跡の廟所には、ここ阿弥陀寺と同じように「織田信長公本廟」と刻まれた石碑が建っています。

どっちが本廟なんだ!?・・・と言いたくなりますが、どこも信長の遺体が埋葬されているという証拠はありませんから、うちが本廟だ!と言ってしまえば、それで通るのでしょうね。


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本能寺安土城の廟所は以前の稿で紹介しましたので、明日は大徳寺総見院の廟所を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2021-06-02 07:28 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(1)

 

Commented at 2024-06-06 08:30
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。

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