青天を衝け 第17話「篤太夫、涙の帰京」 ~禁門の変(蛤御門の変)~
平岡円四郎暗殺の凶報を関東出張中の渋沢栄一(篤太夫)と渋沢喜作(成一郎)のふたりが知ったのは、事件発生から14、5日後のことでした。栄一の自伝『雨夜譚』によると、栄一はこの凶報を聞いたとき「じつに失望極まった」とあります。そうだったでしょうね。栄一らが一橋家の家臣となってわずか半年ほどしか経っていませんでしたが、円四郎から受けた恩顧は人生いちばんだったといってもよく、その恩人の横死に接した彼らの悲憤は察するにあまりあります。きっと、にわかには受け入れられない椿事だったでしょう。
同年9月、栄一と喜作は応募した志士50人ほどを連れて京都に向かいました。その道中、深谷宿に一泊したおりに妻・千代と娘・歌子に一目会ったという話は実話のようです。また、岡部の陣屋前を通って村はずれまできたとき、あとを追ってきた岡部藩士から栄一と喜作の身柄引き渡しを要求されるも、同行していた一橋家の家臣がこれを断ったという話も、栄一の自伝『雨夜譚』で語られています。
京に戻った栄一らと面会した徳川慶喜が、円四郎が殺された理由について、「円四郎は私の身代わりになったのだ」と言っていましたが、実際に慶喜自身がそう言ったかどうかはわかりませんが、その通りですね。ドラマでは描かれていませんでしたが、円四郎が殺された前年、同じく慶喜の側近として円四郎とともに重用されていた中根長十郎も、同じく水戸藩士らによって暗殺されていますし、また、ネタバレになりますが、のちに慶喜が重用することとなる原一之進も、中根長十郎、平岡円四郎と同じく奸臣と見なされて殺されます。過激派志士たちも、さすがに主君筋である慶喜に手をかけることはできず、その側近を「君側の奸」として殺したわけです。まさしく「身代わり」でした。
栄一らが京に戻る2ヵ月ほど前の元治元年7月19日(1864年8月20日)、京で歴史を揺るがす武力衝突が起こります。世にいう「禁門の変(蛤御門の変)」です。前年の八月十八日の政変によって京都から追放されていた長州藩士が、この前月に起きた「池田屋事件」の報復を掲げて挙兵、打倒会津を目的に洛中で市街戦を繰り広げた事件ですね。禁門の変というと、どうしても長州、薩摩、そして会津の面々に目が行きがちですが、このとき禁裏御守衛総督という職にあった徳川慶喜も、大いに関わっています。
池田屋事件後、長州系の尊攘派の弾圧体制を強化する会津藩に対して、当初、慶喜は、歎願を目的に上洛してきた者をみだりに討つのは不可としたうえで、理を尽くして、長州側に京都からの退兵と朝命を待つよう粘り強く説得すべきと主張していました。ところが、この方針によって、これまで良好だった会津藩と慶喜との関係が悪くなります。そこで慶喜は、強大な軍事力を持つ薩摩藩に接近しますが、薩摩藩の在京幹部は、同年2月に行われた参預会議による慶喜に対する不信感が強く、また、当初、薩摩藩は会津と長州の私戦として日和見をする考えだったようで、長州追討の勅命が出ない限り薩摩は動けないとの態度を示します。そこで慶喜は6月27日の夕方に参内し、長州藩に対して撤兵を命じる朝命を下すよう朝廷に求めます。そして、もしこの要求が認められなければ、松平容保は京都守護職を、自分は禁裏御守衛総督と摂海防禦指揮を直ちに辞すと脅しをかけました。
この脅しにビビった公卿の近衛忠房は、この夜、薩摩の西郷吉之助(隆盛)を御所に呼び出して意見を求めますが、このとき西郷は慶喜の意見を支持し、長州側が暴発し、勅命が下れば兵を出すと返答しています。この西郷の決断によって、禁門の変の薩摩兵の参戦の方針が決まりました。その後、7月上旬に開かれた朝議後に西郷が国元の大久保一蔵(利通)に宛てた書簡には、「一橋の論にあい決し、和戦とも一橋の見込みをもって処置致すべき旨、御委任あい成り候」と書かれています。朝議は慶喜の論じるところに決定し、和議、交戦ともに慶喜の方針によって処置することとなったということですね。もっとも、それでも慶喜は、最後まで内乱を避けるべく長州藩使者の説得に努めますが、7月18日、孝明天皇が慶喜を小御所に呼び、長州藩追討の勅命を直々に下すこととなります。
翌7月19日、長州藩が会津藩兵の警護する蛤御門に向けて発砲したことで戦闘が始まりました。いざ戦いが始まると、慶喜もいよいよ覚悟が決まったのか、獅子奮迅の活躍を見せます。長州勢の進軍を知った慶喜は、ドラマで描かれていたように、愛馬にまたがり一騎駆で御所まで駆けつけました。その際、敵方に銃撃され、愛馬が負傷したといわれます。戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と戦ったのは、初代・徳川家康を除いた歴代徳川将軍の中では初めてのことでした(もっとも、まだ将軍ではなかったですが)。
ドラマには出ていませんが、このときの慶喜を間近で見ていた薩摩藩家老の小松帯刀は「よほど振りはまりにてご動揺もこれ無く、誠に有り難き事に御座候、(中略)戦の折りは日御門前ぇ出張して、自ら下知もこれ有り、よほどの尽力にて仕合に御座候」と国元の大久保一蔵(利通)に書き送っています。また、この戦闘中、天皇を皇居外に緊急避難させるという名目のもと、天皇を長州の勢力下に置こうとする策が親長州派の公家によって図られましたが、これも、慶喜の果断な行動によって阻止されました。これも、このとき同行していた小松帯刀の書簡によると、このとき慶喜は「一騎駆にて御参内」し、「会釈も無く昇殿」し、外に出ようとする天皇の袖を引き留めて阻止したといいます。このときの慶喜を小松は、「振はまらせたる御挙動、威儀堂々、誠に無双の豪傑とあい見え候」と語っています。「無双の豪傑」とは、最高の賛辞といえるでしょうね。ここ、描いてほしかったなぁ。
戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。
後世に伝わる「禁門の変」や「蛤御門の変」といった名称は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦にみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。
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by sakanoueno-kumo | 2021-06-07 17:11 | 青天を衝け | Trackback | Comments(0)