朽木城の詰城・西山城攻城記。 <前編> 登山口~南出曲輪~愛宕神社
朽木陣屋の北側にそびえる標高356m、比高200mの西山の山頂に、かつて西山城がありました。
今から城跡に登ります。

西山城に関する史料が未発見のため詳細は不明ですが、その立地から、朽木城(朽木陣屋)の背後を固める詰城であることは間違いないとされています。

朽木陣屋北側の住宅地を進みます。
ところどころに誘導板が設置されているので、迷うことはありません。

登山口です。

登山口に設置された説明板です。

登山開始です。

登山道はきれいに整備されていて、ハイキング気分で登れます。

が、登るにつれ、倒れた木々が目立ち始めます。

ここを訪れたのは令和元年(2019年)11月2日。
この前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、関西は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。

あれ以来、関西の山城を登ると、各所でこんな光景を目にします。
街のなかはすぐに復興整備されますが、山の中はまだまだ放置プレイ状態です。

ひどいですね。

登山口から登り始めて25分、曲輪跡と見られる広い削平地に出ました。

が、見ての通り、倒れた木々が邪魔してその全貌がわかりません。

根こそぎ倒れています。
台風の凄まじさがわかりますね。

倒れた木を跨いだり下をくぐったりしながら先に進みます。

「出曲輪」と書かれた立て札がありました。
やはり、ここは曲輪跡だったんですね。

その位置から、主郭から離れた南出曲輪のようです。

南出曲輪の西側にある大きな堀切跡です。

先へ進みましょう。

「主郭へ200m」とあります。
もうすぐです。

しばらく進むと鳥居が現れ、その向こうに小さな社が見えます。

登山口にあった説明板によると、ここは主郭の西側の曲輪に鎮座する愛宕神社です。

愛宕神社と西山城との関係はよくわかりませんが、山城の縄張り内に神領を置くというのはよくあることです。

社の横に「鳴り岩」と書かれた立て札があります。

その背後を見ると、とんでもなくデカイ岩があります。
後ろにまわってみましょう。

後ろ側から見た鳴り岩です。
10mはあろうかという2つの岩が重なり合っています。

西山城を築いたとされる朽木氏は、承久3年(1221年)に起きた承久の乱に鎌倉幕府軍として参戦した佐々木信綱が、その武功によって朽木荘の地頭職を与えられ、その曾孫の義綱が朽木姓を名乗ったことに始まります。
朽木氏は宗家の高島氏や他の高島氏分家とともに「高島七党」と称され、この地方を支配してきました。

西山城の築城については定かではありませんが、麓の説明板によると、室町時代中頃に朽木氏の拠点が岩神館から朽木城(のちの朽木陣屋)に移った時期に造られたと考えられているそうです。
時代的に言えば、13代当主の朽木稙綱の頃でしょうか?
稙綱は将軍・足利義晴・義輝父子が朽木谷へ逃亡した際の朽木氏当主です。
であれば、将軍たちもこの鳴り岩を目にしたかもしれませんね。

さて、愛宕神社の東側の切岸を登れば、西山城主郭部です。
が、長くなっちゃったので、<後編>につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-06-10 10:20 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)