朽木城の詰城・西山城攻城記。 <後編> 主郭
<前編>のつづきです。
愛宕神社の東側の切岸を登れば、いよいよ西山城主郭部に入ります。

切岸の下にある説明板です。

復元図を拡大します。
中央に広い主曲輪があり、南北に袖曲輪がある構成のようです。

それでは、主郭に登りましょう。

「桝形虎口」と書かれた立札があります。
その向こうに虎口跡が見えます。

虎口を抜けます。

「主郭」と書かれた立札が。

主郭です。
広い!
向こうに見える土塁は、復元図に書かれていた烽火台のようです。

外周も低い土塁で囲われています。

西山城は昭和54年(1979年)に地元の中学校教諭によって発見され、その後、滋賀県教育委員会の調査で山城の遺構と確認されたそうです。

主郭にも説明板があります。

<前編>でも述べたとおり、西山城の築城については定かではありませんが、室町時代中頃に朽木氏の拠点が岩神館から朽木城(のちの朽木陣屋)に移った時期に造られたと考えられているそうです。
ただ、現存する遺構からは、戦国時代末期(16世紀後半)に改築されたことがわかるそうです。
その頃の朽木氏の当主といえば、中興の祖として知られる15代当主の朽木元綱。
元綱は元亀元年(1570年)、織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、北近江の小谷城主・浅井長政の寝返りによって退路が危うくなった信長を助けた武将です。
元綱は松永秀久の説得に応じて信長の領内の通過を認め、さらに、朽木街道を案内して京へと信長を逃しました(朽木越え)。
あるいは、そのとき、信長もここ西山城に入ったかもしれません。

説明板が立っている場所も土塁の上です。

その背後の切岸。

烽火台です。

烽火台から北側を見下ろすと、北の袖曲輪があります。
降りてみましょう。

主郭北側の虎口から降ります。

北曲輪です。

それほど広くはありません。

何か立札が見えます。

「溜桝」と書かれています。
ここに雨水を溜めていたのでしょう。

北曲輪から見た主郭烽火台の切岸です。

北曲輪からさらに北を見下ろすと、大きな堀切跡が見えます。

さらにその下にも「堀切」と書かれた立札が見えますが、切岸が急だったのでここまで。
主郭に引き返しました。

そして、今度は主郭南側の曲輪にやってきました。

こっちは北曲輪よりたいぶ広い。

南曲輪から見た主郭切岸です。

そして、南曲輪の南側を見下ろすと、こちらにも堀切跡があります。
高い切岸の上にさらに南北に空堀を巡らせた堅固な城だったことがわかりますね。

さて、曲輪をすべて攻略したので、下山します。
が、西山城の西麓に、織田信長の朽木越えの際に信長が一時身を隠していたと伝わる場所があります。
次稿では、その場所に立ち寄ります。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2021-06-11 07:26 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)