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青天を衝け 第18話「一橋の懐」 ~天狗党の乱~

 「天狗党の乱」が終結しましたね。これまで大河ドラマで「天狗党の乱」が詳しく描かれたことはあまりなかったんじゃないでしょうか? そこで、今回は「天狗党の乱」について始めから復習したいと思います。


青天を衝け 第18話「一橋の懐」 ~天狗党の乱~_e0158128_20354434.jpg 天狗党とは、水戸藩の過激尊王攘夷派のことで、もともとは「裂公」と評された徳川斉昭を支持する改革派の藩士たちでした。斉昭が天保期(183044)に行った藩政改革の際、斉昭から重用された面々です。なぜ「天狗」と呼ばれるようになったかというと、斉昭によって引き上げられた成り上がり者たちで、まさに高慢「天狗」と言われたことからだったようです。そのまんまですね。そんな天狗たちは斉昭存命中は藩政の中心にいましたが、安政の大獄で斉昭が謹慎処分となると、水戸藩内では斉昭の改革に否定的だった保守派(諸生党)の勢力が盛り返し、天狗党との対立を深めていきます。そして斉昭の死後に両者の対立はいっそう深刻化し、文久3年(1863)に京で「八月十八日の政変」が起きると、藩内の実権を諸生党が掌握します。これに対して、天狗党の過激派は攘夷を決行すべく、元治元年327日(186452日)、常陸の筑波山にて挙兵しました。


 挙兵した天狗党の実質的な首謀者は、藤田東湖の子・藤田小四郎でした。小四郎は23歳の若さだったため、水戸町奉行の田丸稲之衛門を説いて主将と仰ぎます。当初62で挙兵した天狗党は、数ヶ月でたちまち700ほどに膨れ上がり、最盛期には1,400という大集団へと膨れ上がりました。彼らは、幕府に対して横浜鎖港の即時実施を要求します。ところが、彼らの一部が、攘夷決行の資金を調達するとも名目で、各所で献金の強要や金品の強奪などを繰り返すという愚行を繰り返したため、幕府はこれを大いに問題視し、天狗党討伐軍を編成するとともに、水戸藩にも天狗党の鎮圧を命じました。その後、天狗党は日光に移りますが、幕府はこれに追討軍を送り、下野、下総、常陸各地で戦闘を重ね、水戸、那珂湊の戦いで敗れると、次第に追い詰められていきます。


青天を衝け 第18話「一橋の懐」 ~天狗党の乱~_e0158128_16512779.jpg 窮地に立たされた天狗党は、同年11月、京都に向けて西上を開始しました。このとき総大将となったのが、藤田東湖と共に斉昭に重用されていた武田耕雲斎でした。当初、耕雲斎は小四郎らの挙兵を軽挙だと諌めていましたが、この期に及んで小四郎から天狗党の首領になってくれるように懇願され、当初は拒絶していたものの、最後は根負けしてやむなく首領を引き受けます。彼らの西上の目的は、京都にいる主君筋の徳川慶喜を頼り、慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることでした。ところが、頼みの綱の慶喜は、天狗党を鎮圧する側にまわります。慶喜は、加賀藩、会津藩、桑名藩の4000の兵を従えて天狗党の討伐に向いました。ドラマで描かれていたように、渋沢栄一もこの討伐軍に加わっています。


 1211日、天狗党は越前の敦賀に入りますが、そこで彼らは追討軍に包囲され、また、その追討軍の指揮官が頼みとしていた慶喜だということを知り、もはやこれまでと観念。1217日、ついに降伏しました。慶喜もかつての家臣たちと一戦を交えずに済んでホッとしたでしょうね。慶喜は加賀藩に命じ、天狗党を敦賀に禁錮させました。加賀藩は天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処したようですが、幕府軍総督の田沼意尊が敦賀入りすると事態は一変。加賀藩から天狗党員の身柄引き渡しを受けると、ただちに彼らをニシン蔵に放り込んで監禁し、手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えるという罪人としての仕打ちを断行します。腐敗した魚と用便用の桶の異臭がこもる劣悪な環境のなか、厳寒も相まって20人以上が病死。その後、形式的な取り調べだけで刑が下され、武田耕雲斎、藤田小四郎以下、352人が斬首という日本史上類を見ない大量処刑が実施されました。また、水戸藩の国元でも、諸生党によって武田耕雲斎の妻や子供、孫など一族すべてが斬首刑となりました。ほかの天狗党の家族も同様だったようです。そこまでやるか~・・・と言いたくなるほど徹底した弾圧でした。こうして天狗党の乱は終結します。


 もっとも、この話には続きがあって、ネタバレになりますが、この3年後に幕府が滅び、戊辰戦争が勃発すると、水戸藩内では天狗党の残党が再び藩の実権を奪い返し、今度は諸生党(保守派)の家族らがことごとく処刑されます。報復ですね。そもそも、天狗党の大量処刑も、桜田門外の変の報復だったのでは、とも言われます。やられたらやり返す。倍返しです。


 もともと、尊皇攘夷のエネルギーは「水戸学」という思想を背景に、水戸藩から起こりました。幕末の尊王攘夷運動の先頭に立っていたはずの水戸藩でしたが、維新後、明治政府の指導者のなかに水戸藩出身の人物はいません。水戸藩の有能な人材は、この天狗党の乱と諸生党の対立で、ことごとく滅んでしまったんですね。なんとも皮肉な話です。


 栄一の話も少しだけ。栄一が慶喜の禁裏守衛総督にふさわしい兵員を徴募すべく、一橋領の備中へ行った話は史実です。そこで代官に邪魔立てされるも、地元の学者・阪谷朗廬関根某という剣術家と交流を深め、塾生たちの支持を得て代官をギャフンと言わせたという話も、栄一の自伝『雨夜譚』の記述をほぼ忠実に描いていました。悪代官というほどではないにしても、事なかれ主義のお役人というのは、今も昔も変わらないですね。



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by sakanoueno-kumo | 2021-06-14 20:37 | 青天を衝け | Trackback | Comments(8)  

Commented by waku59 at 2021-06-14 21:11
>維新後、明治政府の指導者のなかに水戸藩出身の人物はいません。

たしかに。その通りですね。歴史の知られざる一幕ですね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-06-15 11:48
> waku59さん

そうなんですよね。
長州も土佐も多くの人材を失いましたが、ここまでひどくはなかった。
薩摩に至っては、ほぼ無傷で維新を迎えました。
その点、水戸は完全に人材が枯渇してしまっていたんですね。
西郷も吉田松陰も、水戸に大きく影響されて志士活動をしていたのに、皮肉な話です。
Commented by nicomachus at 2021-06-15 23:15
こんばんは
一昨日の放送で
栄一が備中で募集活動をしていたとき、
急に私の出身地の名が出てきて、
少し驚きました。
何でも鯛が名物だそうですが、
ホントかなと思いましたが、
これも書き残していたのでしょうか。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-06-16 11:10
> nicomachusさん

鯛のことも自伝に書いています。
それによると、阪谷朗廬の塾生たちから、ちょうど今、鯛網の季節だと聞いて、塾生たちと見物に行き、そこで取れたての生きのいい鯛をすぐ料理してもらい、舌つづみを打ちながら酒を飲み、塾生たちと詩を吟じるなどして親交を深めたと語っています。
また、その鯛が非常に安値で出回っていることも知り、また、ドラマにあったように、備中の古い家屋の床下から硝石が取れることや、良質の米を安く買って高く売ることや、播磨の木綿を大阪に廻送して高く売ることなどをこの旅中に思いついた話も、すべて自伝に書かれています。
あと、これもドラマにありましたが、黒川に女を世話するといわれて怒って断ったという話も実話のようで、郷里の妻に「一度も婦人狂いなど致さず」と書き送った手紙も残っているそうです。
後年、妾を何人も囲って女遊びがお盛んだった渋沢ですが、この頃はまだ堅物だったようですね(笑)。
Commented by nicomachus at 2021-06-16 12:51
ご丁寧にありがとうございます。
興譲館高校が、由緒ある学校とは
知りませんでした。

それにしても、武田耕雲斎は子や孫まで含めて
家族を処刑とは無茶苦茶ですね。
とんでもない時代だったんですね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-06-16 14:53
> nicomachusさん

母校とか?
かつての藩校が、そのまま今も中学校や高校として残っている例は全国でたくさんありますね。
調べてみたら、興譲館高校は甲子園にも出ているようですね。

一族全員処刑というのは、400年以上前の戦国時代ならめずらしくない話でしたが、これはたかだか150年ほど前の話ですからね。
わたしの父親は昭和5年生まれで、渋沢栄一は昭和8年没ですから、幕末って実はそんな昔じゃないんですよね。
欧米ではすでに議会主義が確立されはじめていた時代に、日本ではまだこんな野蛮なことやってたんですね。
もっとも、西洋でも、20世紀に入ってからでもナチスの大虐殺などありましたが。
Commented by kumikokumyon at 2021-06-17 11:58
今回もすっかり見入ってしまいました。この時代の詳細を上手く表現できているドラマは少なく、天狗党の乱がこんな様子とは初めて知りえました。
ここから明治維新まで幾多の血が流れますが、結果現在の政権の土台長州が面々と続く、そして大陸侵略から大戦へ。
最近の日本政府の動向を見ているとまたヤバイ方向に向かっているような気がしてなりません。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-06-17 17:52
> kumikokumyonさん

天狗党の乱は、実際にはもっとえげつない日本刑罰史上最大の惨劇でした。
田沼は福井藩、小浜藩、彦根藩の三藩に斬首の執行を命じますが、福井、小浜が躊躇しているなかで、彦根藩だけは、井伊直弼の報復とばかりに張り切って天狗党の首をバッサバッサと斬り落としていったといいます。
その光景はまさに地獄図だったと。
さすがにそこまでは描けませんでしたね。
ところが、その3年後の鳥羽伏見の戦いでは、家康以来幕府の先鋒だったはずの彦根藩が、率先して薩長側に付きます。
彦根藩こそ、会津藩らとともに最後まで幕府軍として戦わないといけない譜代大名筆頭のはずなのに、節操のない話です。
その点、一貫して反幕府だった長州は、ある意味ピュアだったといえます。

で、凄惨な最期を遂げた天狗党でしたが、とはいえ、彼らのやったことは、決して褒められたことではなかった。
同時期に起きた天誅組の乱などもそうですが、単なるテロリズムでした。
ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型の青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。
ところが、そんな天狗党や天誅組の面々は、維新間もなく創建された靖国神社に祀られました。
理由は、尊王精神で維新に殉じたということです。
一方で、新選組や白虎隊、西南戦争で散った西郷たちは「朝敵」とされ靖国に合祀されていません。
「尊王」というスローガンでいえば、彼らも同じだったはずなのに、です。
この靖国神社創建に尽力したのが長州閥でした。
靖国には、長州閥に都合のいい人物だけ祀られています。
近年、A級戦犯の合祀や閣僚の公式参拝などが問題視されますが、わたしは、そんなことはどうだっていい。
それ以前に、靖国神社は、長州閥が長州閥のために作ったプロパガンダ神社だということを、もっと知ってほしいですね。
あんま言うと炎上するので、このあたりにします。

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