北近江浅井氏の居城、小谷城攻城記。 その1 <登山口~金吾丸>
近畿の水瓶・琵琶湖の北端に、かつて北近江を支配した戦国大名・浅井氏の居城、小谷城がありました。
小谷城は滋賀県長浜市湖北町にある標高495mの小谷山(伊部山)の山頂から伸びる東西2本の尾根上に広がる屈強の山城で、春日山城、七尾城、月山富田城、観音寺城と共に日本五大山城のひとつに数えられます。
浅井亮政、浅井久政、浅井長政の三代の居城として半世紀以上に渡って北近江を支配しました。

上の写真は南麓の武家屋敷跡から見た小谷城清水谷です。
この谷を挟んで左右の尾根筋に曲輪や砦がいくつも築かれています。
まさに、山全体が城というとてつもなくでかい城です。

清水谷の南にある資料館です。
ここで登山MAPをもらいます。

資料館前の顔抜きパネル。
浅井長政とその正室・お市の方ですね。
ここ小谷城は長政とお市の悲劇の舞台としても知られます。


資料館周辺には、説明看板や縄張り図が数多く設置されていました。
攻城前の予習です。

この絵図はわかりやすいですね。
絵図右側の尾根筋が小谷城本城と呼ばれるエリアで、奥の小谷山山頂にも支城の大嶽城があり、左側の尾根筋にも福寿丸、山崎丸と呼ばれる出城があります。
中央の清水谷には、下屋敷跡が並びます。
このすべてを制覇するにはとてつもない時間と体力が必要なので、この日は大嶽から左側の尾根筋はパスし、南から本城を攻略して六坊から清水谷を下山するコースを選びました。

登山口です。
実は小谷城にはシャトルバスで中腹の番所跡まで登れるラクチンコースもあり、また、同じく中腹の番所跡まで自家用車で登ることも可能だったのですが、この日は令和元年(2019年)8月11日という猛暑真っ只中の日で、どうしようか迷ったすえ、せっかくなので、麓から歩いて登ることにしました。
この判断が、あとから後悔することになるのですが・・・。

追手道の説明板です。

防獣柵を開けて、登山道に入ります。

登山開始。

番所跡まで1.2kmとあります。
山道の1.2kmというと、30分以上は掛かります。
普通の山城なら、1.2kmも登ればだいたい本丸に到達するのですが、ここ小谷城はそれでやっと中腹。
この暑さのなか登れるだろうか・・・。

有名な城なので、登山道はちゃんと整備されているのですが、勾配はかなりキツイ。

登り初めて約20分、「間柄峠址」と刻まれた石碑と説明書きの駒札があります。
大永5年(1525年)7月、江南の六角定頼が浅井亮政を討つべく小谷城を攻めたとき、越前より朝倉氏の軍奉行・朝倉宗滴(教景)が援軍として駆けつけますが、その教景に従ってきた真柄備中守が守備したのがこの場所だそうで、その名をとって「真柄峠」と呼ぶようになったそうです。
で、いつしか「真柄」が「間柄」になったということでしょうか。

それほど広い空間ではありません。

間柄峠から5分ほど登ると分かれ道になっていて、右側の道の入口に石碑があります。

「金吾丸」と刻まれています。
登ってみましょう。

ここからがまた、かなりキツイ坂です。

着きました。

「金吾丸」です。

間柄峠と同じく、大永5年(1525年)7月に朝倉宗滴(教景)が来援したとき、宗滴が陣を布いたのがこの場所だったそうです。
宗滴の諡号を金吾といい、その名にちなんで「金吾丸」と呼ばれるようになったそうです。

金吾丸から南に琵琶湖が見えます。
金吾丸の周囲は急勾配の切岸になっていて、ここだけでも立派な砦です。
何より、登り初めて約30分、まだ本格的な城跡に達していないのに、もう暑さでバテバテです。
やはりバスに乗ればよかった。
「その2」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-06-16 18:38 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
まだ、姉川も行ったことないんで、一度、行ってみたいんですけどね。
ちょうど今、黄金の日々では、信長が小谷を落とせず、苦境にあるところですが、実は今までイマイチ、ピンときてませんでした。
先日、安土城について書かれた本を読んでいて、直接関係ない浅井戦役について書かれているのをみて、初めて、事態が理解できました。
姉川古戦場も行きましたよ。
小谷城は大きすぎるので、2回に分けて行きました。
あと、小谷城南の信長が陣を布いた虎御前山にも行きましたし、小谷城落城のきっかけとなった山本山城、秀吉が陣を布いた横山城などの支城も行きました。
小谷城攻めに関連した古戦場をすべて制覇し、改めて浅井戦の本を読むと、手に取るようにわかるんですよね。
やはり、文字だけの情報で知識を得るには、凡人には限界がありますね。