北近江浅井氏の居城、小谷城攻城記。 その3 <赤尾屋敷跡>
「その2」のつづきです。
御馬屋跡からその上の桜馬場跡に登る途中に、東にそれる脇道があります。
その入口には、「右 赤尾美作守屋敷址」と刻まれた石碑があります。
赤尾美作守とは浅井氏の重臣・赤尾清綱のことで、ここにその屋敷があったと伝わります。
説明板によると、ここが浅井長政の最期の地となったとあります。
その説明版。
本丸への道からそれちゃうのですが、せっかくなので行ってみます。
細い道を進みます。
分岐点から3分ほどで赤尾屋敷跡の曲輪に到着。
石碑と復元絵図があります。
復元絵図によると、3段構造の曲輪のようです。
ここは、そのいちばん上の曲輪です。
結構な広さです。
また駒札と石碑が見えます。
こちらの石碑には、「浅井長政公自刃之地」と刻まれています。
かつては織田信長の妹・お市の方を正室に迎えて信長と同盟を結んでいた浅井長政でしたが、元亀元年(1570年)4月に信長が越前の朝倉義景討伐の兵を挙げたとき、信長に反旗を翻しました。
同年6月の姉川の戦いでは織田軍に敗れたものの、小谷城を落とされるまでには至らず、その後も何度か信長と対峙しながらも、最終的な決着はつかずじまいの状況が続いていました。
状況が大きく変わったのは、天正元年8月の一乗谷の戦いでした。
浅井家重臣の山本山城主・阿閉貞征を織田方へ寝返らせることに成功した信長は、3万の軍勢を率いて虎御前山の砦に本陣を布き、小谷城を包囲します。
そこに浅井氏の救援にやってきた朝倉軍を、逆に本拠地の一乗谷まで追い詰め、8月20日、朝倉義景を自刃に追い込みました。
朝倉氏を滅ぼした信長は、すぐさま近江に踵を返し、8月26日に小谷城の前線に戻ると、羽柴秀吉に側面から攻撃させ、8月28日に京極丸にいた長政の父・浅井久政を自害に追い込みました。
本丸に籠もっていた長政に対して、信長は城の明け渡しを条件に降伏を勧告しますが、長政は受け入れることなく、わずか500の兵で抵抗を続けました。
しかし、劣勢を挽回できるはずもなく、死を覚悟した長政は、お市の方と3人の娘、お茶々、お初、お江を家臣に命じて信長のもとに送り届けさせ、ここ赤尾屋敷で家臣・浅井日向守の介錯のもと自刃します。
享年29。
『信長公記』には、長政が自刃したのは8月28日と記されているのですが、8月29日に長政が家臣の片桐直貞に宛てた感状が残されており、現在では9月1日に自刃したと考えられています。
父の久政が自刃してから、2日間耐えしのいだということですね。
その説明板。
曲輪の東側をのぞき込むと、下の段の曲輪が見えます。
降りようかどうしようか迷ったのですが、切岸が急斜面で高かったのと、下の曲輪は草が刈られておらず荒れていたので、断念しました。
こちらは、曲輪西側の切岸。
高い。
この上に二ノ丸にあたる大広間、そして本丸があります。
浅井長政自刃の地に手を合わせて、先へ進みます。
つづきは「その4」にて。
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by sakanoueno-kumo | 2021-06-19 00:48 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
美男美女の夫婦に美しい3人の娘、絵になる様な生活で
あったろうと思います。
寝返らないという選択はなかったのでしょうか?
その後の母娘の運命や小谷城の最後は思う度辛いです。
>寝返らないという選択はなかったのでしょうか?
ドラマなどでは、長政は信長方につこうとしていたのに、父の久政が強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れるかたちで信長に反旗を翻したという説で描かれることが多いですが、この説は後世の軍記物などに書かれている話で、真偽は定かではありません。
長政が信長に反旗を翻した理由について、浅井氏が朝倉氏に旧恩を感じていたからといわれることが多いですが、この時代の価値観からして、旧恩に固執して家を滅亡の危機に晒すとは考えにくいでしょう。
長政は、信長に勝つ見込みがあったのでしょうね。
実際、長政が反旗を翻したことで、信長は命からがら越前から逃げ帰っているし、その後も、信長包囲網の一角として、信長を大いに苦しめています。
歴史の歯車がひとつ狂えば、長政が反信長勢力を集結して信長を倒し、日本の歴史を大きく変えていたかもしれません。
享年は数え歳ですから、満でいえば27歳か28歳。
たしかに若いですよね~。
わたしの息子が今年27歳になりますから、そんな歳だったのか!って感じです。
わたしも、息子に道を誤らせる久政のような親父にならないよう気を付けます。
息子と共に金の薄濃の髑髏にされないよう(笑)。