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青天を衝け 第19話「勘定組頭渋沢篤太夫」 ~条約勅許と家茂の将軍職辞意表明~

 慶応元年(18654年)916日、英仏蘭米4ヵ国の公使を乗せた外国艦隊が、兵庫沖へ渡来しました。彼らの目的は3つ。一つは、天皇による条約の承認を得ること、二つめは長州藩がやらかした下関戦争の賠償金の3分の2の免除と引き換えに、大坂開市、兵庫開港を即刻実施すること、三つめは、輸入税の引き下げを図ることでした。大坂開市と兵庫開港は、文久2年(1862年)5月に調印されたロンドン覚書により、5年間延長することになっていましたが、彼らはこれを早めて開港することを求めてきました。


 これを受けて、922日に老中の阿部正外が兵庫に向かい、4ヵ国公使と会見します。そこで4ヵ国側から要求に対する短時日での回答を迫られ、もし、幕府がそれを決定できないのであれば、すぐに天皇の承諾を得るべく京都へ出向くとの圧力をかけられます。これを受けた阿部らは、短時日での条約勅許と兵庫開港を朝廷に承諾させることは難しいと考え、幕府独断での兵庫開港の決定もやむを得ないとの判断に至ります。


青天を衝け 第19話「勘定組頭渋沢篤太夫」 ~条約勅許と家茂の将軍職辞意表明~_e0158128_16512779.jpg ところが、この間、京都にいた徳川慶喜にはまったく相談がなく、このことを知った慶喜が激怒。急遽、大坂に下り、大坂城内で開かれた評議の席で阿部正外、松前崇広らと激突します。慶喜は、兵庫開港それ自体に反対はしないものの、あくまで天皇の勅許を得ることにこだわりました。そこには、かつての大老・井伊直弼違勅調印が念頭にあったのでしょう。井伊が独断で調印したことによって、幕府に対する世論はどうなったか。天皇の支持のない幕命では、世論を納得させえない。朝幕協調体制を維持するためには、天皇の承認を得ることは不可欠と主張します。この慶喜の主張には、老中格の小笠原長行が共感を示しますが、このとき、将軍・徳川家茂は、ただ涙を流すのみで裁定を下すことができなかったといいます。


青天を衝け 第19話「勘定組頭渋沢篤太夫」 ~条約勅許と家茂の将軍職辞意表明~_e0158128_20423983.jpg この情報が京都に伝わると、関白の二条斉敬中川宮朝彦親王らが激怒し、無勅許での兵庫開港を主張した阿部正外、松前崇広の2人の老中の官位剥奪と謹慎を命じる勅命を下します。これは、朝廷によって幕府の現職の老中が処罰されるという前代未聞の事態でした。また、この直前、将軍の家茂も、征夷大将軍職の辞意を表明し、代わりに慶喜に将軍職を委譲したいとの意向が示され、朝廷に提出されました。このとき家茂、若干19。この難局はあまりにも重荷だったのでしょうね。後継に慶喜を指名したのは、ドラマでは純粋に慶喜の能力を認めての指名のように描かれていましたが、実際には、朝廷内で発言力を持つ慶喜に対しての不信から、皮肉混じりの嫌がらせだったともいわれます。慶喜、家茂両人の関係は、決して良くはありませんでした。


 この家茂の将軍辞意表明は、一会桑の三者が懸命に説得し、撤回に至りました。ただ、この騒動によって、慶喜は大坂の幕臣たちから大いに反感を買うことになります。家茂の将軍辞退を受けて、天皇がただちに慶喜に将軍職を宣下するとの噂が流れ、これは天皇を後ろ盾にした慶喜の謀反だと在坂の幕臣たちは激高し、慶喜襲撃を計画する者まで出てきます。追い詰められた慶喜は、何としても条約勅許を取り付けようと奔走。そして、105日に行われた朝議では、まず有力藩の意見を聴取することとなり、呼び出された薩摩藩は、有力諸侯を京都に召集し、彼らの合意を得たあと、朝命をもって条約勅許を得る方針を提示しました。つまり、幕府から諸藩が外交権を奪おうという意図ですね。しかし、これは慶喜が体を張って阻止します。そして同日、朝議が紛糾し、深夜に退出しようとする公卿たちに対して、慶喜は「国家の重大事を前に退散する者は、このままでは済まさない」脅しました。さらに、「条約勅許が得られない場合は、わたしは自決するつもりだが、そうなれば家臣たちが何をしでかすか保証しない」と、さらに追い打ちをかけます。この脅迫に近い恫喝的手段によって、慶喜は強引に勅許を勝ち取り、函館、横浜、長崎3港の開港が認められました(ただし、兵庫の開港は京都に近いという理由で不可)。しかし、このようなあまりにも強引なやり方をとったため、その後、慶喜は朝廷からも幕臣からも諸藩からも反発を買うことになります。


 このあと、ドラマでは薩長同盟成立、第二次長州征伐、そして家茂が倒れるところまで駆け足で進みましたね。薩長同盟についてはよく知られているので、解説はもういいでしょう。第二次長州征伐と家茂の死については、次週に譲ります。勘定組頭に出世した渋沢栄一については、播磨の木綿を高く買って安く売ろうとした話、信用できる藩札を発行した話、ほとんど栄一の自伝『雨夜譚』の記述どおりです。ドラマでは、渋沢成一郎(喜作)から勘定組頭という役職を罵られていましたが、栄一にとっては、まさに水を得た魚だったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2021-06-21 20:43 | 青天を衝け | Trackback | Comments(0)

 

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