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青天を衝け 第22話「篤太夫、パリへ」 ~パリ万国博覧会と四侯会議~

慶応3年正月11日(1867215日)、徳川昭武使節一行29を乗せたフランス郵船アルフェー号が、横浜港を出港しました。このとき渋沢栄一28。おそらく、期待に胸を膨らませていたことでしょう。このときの旅行記に『航西日記』『巴里御在館日録』『御巡国日録』の3種がありますが、すべて随員の杉浦愛蔵と栄一の共著で、その大部分が栄一による記録だったようです。その船中の様子を見てみると、


青天を衝け 第22話「篤太夫、パリへ」 ~パリ万国博覧会と四侯会議~_e0158128_16424734.jpg 「郵船中にて諸賄方きわめて鄭重なり。毎朝七時頃乗組の旅客監漱(うがい・洗面)の済しころ、ターブル<餐盤なり>(テーブル)にて、茶を呑ましむ。茶中必雪糖を和し、パン菓子を出す。又豚の塩漬け(ベーコン?)などを出す。ブール(バター)と云う牛の乳の凝りたるをパンへぬりて食せしむ。味甚だ美なり。同十時頃にいたり朝餐を食せしむ。器械すべて陶皿へ、銀匙(スプーン)、並びに銀鉾(フォーク)、庖丁(ナイフ)等を添へ、菓子、蜜柑、葡萄、梨子、枇杷、其他数種、盤上に羅列し、随意に裁制し食せしめ、又葡萄酒へ水を和して飲しめ、魚、鳥、豚、牛、牝羊等の肉を烹熟し、或は炙熟し、パンは一食に二、三片適宜に任す。食後、カッフヘーといふ豆を煎じたる湯を出す。砂糖、牛乳を和して之を飲む。頗る胸中を爽にす。」


 ほぼこの記述どおり描かれていましたね。明治初期、日本人はバターの匂いがよほど合わなかったようで、「バタ臭い」という言葉の語源にもなったぐらいでしたが、栄一は初めて食したバターを「味甚だ美なり」と感じたようですし、コーヒーも「すこぶる胸中をさわやかにす」という感想だったようです。もともとの味覚が洋食に合っていたのか、あるいは、珍しいものを肯定して受け入れる性分だったからか、いずれにせよ、栄一が初めて経験する洋食は口に合ったようです。


 日本を離れてから約40日後の221日(321日)、一行はエジプトのスエズに到着しますが、当時、スエズ運河はまだ出来ておらず、船で通ることはできませんでした。そこで一行は下船し、陸路をとります。これが栄一たちにとって初めての鉄道移動となるのですが、その車中、栄一はスエズ運河の開削工事を目にし、紅海地中海を結ぶ全長160kmにわたる水路を人工的に作るという大事業に驚き、また、それを行っているのが国家ではなく民間企業だということに天と地がひっくり返るくらい衝撃を受けます。そこで「株式会社」という制度を知り、多くの資金を集めればこんな巨大事業ができることに感銘を受けたといいます。ここは台詞でしか描かれなかったですね。まあ、建設中のスエズ運河なんてCGでしか描けないでしょうから、予算の都合でしょうか。


 また、初めての汽車の移動中、板ガラスを知らなかった栄一たち一行が、窓からミカンの皮を投げ捨てたところ、ガラスに当たって跳ね返り、前の座席にいた西洋人の顔に当たったそうです。これが原因で言い争いになり、お互い言葉が通じないため一悶着が起きたものの、やがて日本人一行が板ガラスを知らなかったということがわかり、場は収まったという有名なエピソードがありますが、これも描かれなかったですね。こちらはCGじゃなくても描けたでしょうが、コントみたいになっちゃうから描かなかったのかも。


青天を衝け 第22話「篤太夫、パリへ」 ~パリ万国博覧会と四侯会議~_e0158128_21244404.jpg


 229日(43日)、マルセイユに到着。ここで一行は有名な集合写真を撮ります。その後、リヨンを経て、37日(411日)の夕方に花の都パリに着きました。数日間はグランドホテルに投宿するも、310日(414日)に栄一が借家の点検に行き、後日、一行はホテルからこの借家へ移りました。これも、ドラマのとおりですね。そして324日(428日)、徳川昭武はナポレオン三世に謁見し、将軍の公書を捧呈し、これに対する返書を受け、公式の礼典はつつがなくすみました。このときの使節一行の服装は「我公使(徳川昭武)には衣冠、全権(向山隼人正)並傅役(山高石見守)は狩衣、歩兵頭(保科俊太郎)並第一等書記(田辺太一)は布衣、第一等翻譯方砲兵指揮第二等書記等(山内文次郎、箕作貞一郎、日比野清作、杉浦愛蔵)は素袍なり。」とあります。よほど華麗な衣装だったようですね。


 それにしても、ナポレオン謁見のシーンといいパリの町並みのシーンといい、コロナ禍海外ロケは出来なかったはずですから、全てCGと合成ですよね。まったく違和感がなかった。いまの映像技術ってすごいですね。でも、こうなると、もはや海外ロケなんていらなくなるんじゃないでしょうか?


 洋行の主目的だったパリ万国博覧会にて、日本国として出品した幕府の展示品とは別に、薩摩藩が琉球国の名義で博覧会に出展していた話は史実です。当時、琉球は薩摩藩の支配下にありましたが、彼らのブースには丸に十の字の島津家の紋が染められた旗が高々と掲げられており、明らかに独立国の様相を呈していました。それを操っていたのが、ドラマのとおり、シャルル・ド・モンブラン伯爵というフランス人でした。彼は当初、幕府側に近づきましたが、幕府博覧会掛の柴田日向守剛中はモンブランの悪評を聞いていたためこれに応じず、そこで彼は、薩摩に近づいて幕府に腹いせをしようとしました。これに対して幕府は、「琉球は薩摩の属国で独立国ではないので、博覧会への出展は不当である」と主張しますが、フランスの博覧会当局はこれを容れず、しかも、外国奉行の向山一履が抗議の際に用いた「ガヴァメント」「大君の政府」「薩摩政府」「佐賀政府」と通訳されていたことに気づかず、談判の不利を招きました。つまり、「日本には徳川幕府だけでなく、島津とか鍋島とかいう大名の政府もあるのか」と受け取られてしまったんですね。このため、向山はこの外交失敗の責任で帰国を命じられます。最終的には、ナポレオン三世が幕府側を支持したため薩摩川はモンブランを伴い帰国することになるのですが、これは、どう見ても幕府に喧嘩を売っているとしか思えませんね。


青天を衝け 第22話「篤太夫、パリへ」 ~パリ万国博覧会と四侯会議~_e0158128_21194824.jpg 慶喜パートも少しだけ。慶応3年(1867年)5月、京都において四侯会議が開かれました。参加メンバーは3年前に短期間で頓挫した参与会議とまったく同じで、松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城の四侯に、3年前と違って将軍となった徳川慶喜。この会議を周旋して実現させたのは薩摩の西郷隆盛で、西郷は久光を動かし、勅命による兵庫開港を実現して慶喜から外交権を奪おうと画策していましたが、会議では慶喜と久光が対立し、慶喜は参与会議時と同様、大いに弁舌をふるってイニシアティブをとり、会議をあえて紛糾させることで合議制の空中分解を画策。結果的にまたも慶喜の政治手腕の勝利に終わります。この会議の席、慶喜の提案で二条城庭園にて写真撮影が行われた話は史実です。このとき、久光は会議が思うように運ばなかったことで、不機嫌な顔のまま撮影された写真が後世に伝わったとされるそうです。ドラマでもそう描かれていましたよね。この会議をきっかけに、薩摩は完全に倒幕に舵を切ることとなります。



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by sakanoueno-kumo | 2021-07-12 21:27 | 青天を衝け | Trackback | Comments(4)  

Commented by heitaroh at 2021-07-15 17:17
ナポレオン三世、よくできてましたよねえ。
よく、こんな外人、見つけてきたものだと(笑)。
ウージェニー皇后は肩がきれいだったので、肩フェチのナポレオン三世が惚れてしまったという話があり、肩ばかり見ていました(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-07-15 20:42
> heitarohさん

ナポレオン三世はわたしも思いました。
そっくりでしたね(笑)。
ウージェニー皇后のことはよく知らなかったので、ちゃんと見てなかったです。
ナポレオン三世、肩フェチだったんですね(笑)。
さすが、いろいろご存じですね。
Commented by nicomachus at 2021-07-18 08:45
今さらですが、
「ナポレオン三世」よくできてましたね。
これほどイメージピッタリの人もないような・・・
でもこの会見の3年後には普仏戦争に負けて
皇帝の座を追われる・・・
無常ですね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-07-19 09:57
> nicomachusさん

RES遅くなってすみません。
土日はあまりパソコンの前に座らないもので・・・。

たしかに、そっくりでしたね。
もともと似た人を探してきたのか、それとも、メイクとかで似させたのか、いずれにせよ、今年の大河はいろんな意味でリアリティがあります。

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