青天を衝け 第25話「篤太夫、帰国する」その2 ~彰義隊と振武軍~
「その1」のつづきです。
江戸城明渡しに不満を持つ旧幕臣たちが、上野の寛永寺に集結した彰義隊の反乱ですが、もともと彰義隊は、鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に舞い戻った徳川慶喜が寛永寺にて謹慎生活を始めた際、その慶喜の護衛と江戸警備の名目で結成された集団でした。もっとも、それは表向きの名目で、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。その頭取に投票によって選出されたのが、渋沢喜作こと渋沢成一郎でした。成一郎は大政奉還後も政権奪還のために奔走し、鳥羽・伏見の戦い後には残された兵の撤退に尽力するなど、旧幕臣たちに名が知られていました。同じく投票によって、副頭取には天野八郎が、幹事には本多敏三郎と伴門五郎が選出されます。隊士には旧幕臣のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。
江戸城明渡しに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはありませんでした。どころが、慶喜が江戸を退去して水戸に移ったため、成一郎は彰義隊も江戸を退去して日光へ退く事を提案します。しかし、副頭取の天野八郎はこれに猛反対。あくまで江戸での駐屯を主張します。ここにきて、頭取の成一郎と副頭取の天野が対立。これに隊士も両派に分裂します。もともと烏合の衆ですからね。団結力はなかったのでしょう。やがて天野派の隊士の一部が成一郎の暗殺を謀ったため、成一郎は彰義隊を離脱します。その後、天野八郎ら強硬派がイニシアティブを取ると、彰義隊はますます過激さを増していきます。
京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。新政府軍はアームストロング砲やライフル砲など最先端の武器を駆使して上野の山を攻撃し、その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。後世に上野戦争と呼ばれるこの戦いの記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。
一方、彰義隊を離脱した成一郎は、一時身を隠していたものの、5月11日、同志とともに飯能の能仁寺で振武軍を結成します。そのなかには、従兄弟の尾高惇忠、そしてその実弟で渋沢栄一の見立養子となっていた渋沢平九郎もいました。振武軍の隊長は成一郎、中軍の将に惇忠、右軍頭取に平九郎が就任しました。平九郎は振武軍に加わるにあたって、自邸の障子に「楽人之楽者憂人之憂、喰人之食者死人之事昌忠」(人の楽しみを楽しむ人は人の憂いを憂い、人の食を食むものは人の事に死す)と書き残しています。また、「たらちねの親の恵みを今ぞ知る 赤き心をうけしと思へば」という歌も詠んでいました。平九郎という青年の情熱的で真面目な人物像がうかがえますね。
上野戦争で彰義隊を壊滅させた新政府軍は、その勢いで飯能まで攻め寄せ、振武軍と激突します(飯能戦争)。しかし、兵力、装備の差は如何ともしがたく、瞬く間に振武軍の敗戦となりました。約500人の振武軍はチリジリとなりますが、その敗走中、平九郎がはぐれてしまいます。彼は戦場から約四里ほど離れた飯能と越生の境にある顔振峠にたどりつき、そこにあった茶屋に入りました。茶屋の女主人である老婆は、この凛々しい青年を幕府の落ち武者と察し、官軍の知らない間道を教えてくれたそうです。しかし、平九郎はとぼけて取り合わなかったといいます。たまりかねた老婆は、せめて人目につく腰の大刀だけでも置いていくよう諭し、平九郎はその親切にこたえ、大刀だけ預けて茶屋を出ました。
茶屋から北へ半里、里山という村に差し掛かったとき、新政府方の広島藩神機隊四番小隊の藤田高之一隊の斥候と遭遇。そこでの問答のすえ、幕府方の脱兵であることがバレてしまいます。平九郎は敵方3人を相手に小刀で応戦し、1人の腕を切り落とし、「山にはまだ60人の同士がいるぞ!」と叫びました。もちろんハッタリです。そのハッタリに敵が怯んだ瞬間、平九郎は小銃をかまえた兵に躍りかかって一太刀浴びせて重傷を負わせるも、その背後から右肩を斬られ、さらに足に銃弾を受けました。しかし、それにも屈せず、血みどろになって応戦する平九郎の姿に恐れをなした二人は、倒れた一人を残してその場を逃げ去ります。やがてその一人が仲間を引き連れて戻ってくると、平九郎は川岸の巨岩に腰をおろし、最期は武士らしく腹をかき切って相果てました。享年22。慶応4年5月23日(1868年7月12日)の夕方でした。
平九郎の首は刎ねられ、今市宿に晒されました。一方、死骸は村人の情けで、誰ともわからないまま黒山村の全洞院に埋葬され、仮に「大道即了居士」という戒名まで与えられました。その後、黒山の村人たちは、平九郎の壮絶な最期を讃えて「脱走のお勇士さま」とあがめていたそうです。後年、平九郎の小刀も、峠の茶屋に預けた大刀も、また自邸の障子に書き残した漢文も、めぐりめぐって栄一の手元に届けられたそうです。栄一は平九郎の死を終生痛ましく思い、晩年、自分の墓地に石碑を立てて、例の「楽人之楽者憂人之憂、喰人之食者死人之事 昌忠」という辞世を筆跡通りに刻ませたそうです。もし、栄一の目立養子になっていなければ、幕臣になることもなく、尾高平九郎として長く生きられたかもしれない。そんな思いがあったのかもしれません。
さて、東京オリンピックが終わってやっと再開した『青天を衝け』でしたが、また来週からパラリンピックでしばらく休止だそうですね。せっかく面白いところなのにねぇ。またしばらくお預けです。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2021-08-24 23:16 | 青天を衝け | Trackback | Comments(2)
知りませんでした、ショック~
平九郎の最後の場面はあまりにもドラマチックで
驚きました、少々盛りはあったとしても実話なんですね。
師匠の詳細なご説明ですっ飛ばしていた幕末のこの時期がとてもよくわかります。
ありがとうございます!!
そうなんですよね~。
昨年の『麒麟がくる』の放送が年越しになった影響で例年より1か月以上遅れてスタートしたのに、先日、最終回が12月26日で放送回数は全41話となることが発表されましたよね。
でも、本来はオリンピックもパラリンピックも昨年の予定でし、麒麟も12月で終わるはずでしたから、当初の予定は50話ほどあったのでしょうね。
加えて、今年のオリンピックも寸前まで中止になる可能性もありましたから、それによって回数も変わっていたかもしれません。
となると、撮影はしていたけど割愛したシーンがけっこうあったんじゃないかと。
残念です。
平九郎の最期は、ほぼ証言通りでしたよ。
このドラマは、ほとんど史実、通説を忠実に描いていて、たいへん面白いです。
上の平九郎の写真は、振武軍として出陣する直前に撮影されたものだそうです。
精悍な顔で、昭和の時代劇に出ていそうなイケメンぶりですよね。
幕末の作品では彰義隊の上野戦争はよく描かれますが、彰義隊から分裂した振武軍は、たぶんほとんど描かれたことはなかったと思います。
その意味でも、今回は価値がある回でした。