小谷城攻めの本陣・虎御前山城を歩く。 その6 <伝 織田信長陣地跡>
「その5」のつづきです。
いよいよ、虎御前山の山頂にある「伝 織田信長陣地跡」を攻めます。
上の写真は信長陣地の南大曲輪切岸。
頂上の主郭から2段下の曲輪への登り口です。
南大曲輪です。
広い。
大曲輪と書かれた立て札の板面が落ちちゃってます。
北側から見た南大曲輪。
次の段曲輪の切岸です。
登り口に「伝 織田信長陣地跡」と書かれた看板があります。
一段上の曲輪です。
ここは頂上の主郭の南側1段下の曲輪なので、南副郭と名付けましょう。
ここも、下の南大曲輪と同じぐらい広い。
ここから進路は直進ではなく、東側に廻されます。
主郭切岸の向こうに、小谷城の東の山裾が少しだけ見えます。
これがそれ。
主郭に登ってきました。
立て札には「長枡形虎口」とあります。
草が生い茂っていてその形がよくわからなかったのですが。
その横に推定復元図がありました。
これはわかりやすい。
確かに、南北に長い枡形虎口になっていて、東側からの入口になっています。
だから東側に廻されたんですね。
「伝 織田信長陣地跡」の主郭です。
「中心曲輪」と書かれた立て札があります。
曲輪の中央には石碑と説明板があります。
往時はここから小谷城が望めたのでしょうが、今は木々に覆われて何も見えません。
わずかに木々の間から大嶽城跡のある小谷山が見えます。
東側は少しだけ開けています。
北東に近江の最高峰、標高1377mの伊吹山が見えます。
その少し南には、横山城が見えます。
その手前の田園地帯が、織田信長、徳川家康連合軍と浅井長政、朝倉景健連合軍の間で行われた姉川の戦いの舞台となった場所です。
元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いでからくも勝利した信長は、すぐさま横山城を占拠し、木下藤吉郎秀吉(のちの豊臣秀吉)を城番に据えて小谷城攻めの拠点としました。
そして、その2年後の元亀3年(1572年)7月、5万の大軍を率いた信長は、小谷城の目と鼻の先にあるここ虎御前山に付城(陣城)を築いて本陣とし、虎御前山から横山城まで長大な要害を作って合戦に備えます。
『信長公記』は、虎御前山をこう伝えます。
虎後前山御取出御普請程なく出来訖(おわん)ぬ。
御巧を以て、当山の景気興ある仕立、生多敷(おびただしき)御要害見聞に及ばざるの由候て、各(おのおの)耳目を驚かされ候。
御座敷より北を御覧ぜられ候へば、浅井、朝倉、高山大づくへ取り上り、入城し、難堪の峠に及ぶ。
西は海上漫々として、向かひは比叡山八王寺、昔は尊き霊地たりといへども、一年、山門の衆徒など逆心を企て、自業得果の道理を以て、山上山下灰燼となさんと、是に御憤を散ぜられ、御存分に仰せつけられたる所なり。
又、南は志賀、唐崎、石山寺、彼の本尊と申すは大国震旦(しんたん)までも隠れなき霊験殊勝の観世音。
往昔、紫式部も所願を叶へ、古今翫(もてあそぶ)所の源氏の巻を注しをかれたる所なり。
東は伊吹山、麓はあれて残りし不破の関、何れも眼前及ぶところの景気、又、丈夫なる御普請、申し尽しがたき次第なり。
虎御前山の普請がいかに堅固だったかがわかりますね。
この要害にビビったのか、籠城した浅井勢も援軍に駆けつけて大嶽城に陣取っていた朝倉勢もいっこうに動こうとせず、9月16日、信長は羽柴秀吉を虎御前山砦に残して横山城に兵を引きます。
これ以降、約1年後の浅井・朝倉滅亡まで、この虎御前山城が小谷城攻略の最前線基地となります。
主郭の北側に降りてみましょう。
さっきの復元図にあった北側の曲輪です。
ここは、南側の曲輪よりだいぶん狭いスペースです。
振り返って主郭の切岸です。
さらに一段下には、細長い帯曲輪があります。
立て札には「信長馬場」と記されています。
やはり信長の陣地跡は他の陣地とは比べ物にならない大規模な砦でしたね。
虎御前山頂上まで制覇しましたが、もう少し北へ進みます。
「その7」へつづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-08-31 22:21 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)