青天を衝け 第30話「渋沢栄一の父」 ~廃藩置県~
明治4年(1871年)春、大蔵卿の伊達宗城が辞職し、代わって大久保利通が大蔵卿となり、井上馨が大蔵大輔、そして渋沢栄一は大蔵大丞となりました。しかし、大久保は参議を兼ねていたため、実質の省務一切は井上が切り回し、栄一はその有力な片腕となります。
その頃、廃藩置県という大改革が急速に進み始めました。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、明治2年6月17日(1869年7月25日)に支配していた土地(版)と人(籍)を天皇に返還させるという版籍奉還を行いましたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていたため、結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。それが、「藩」をなくして「郡県制」を布くという廃藩置県でした。
明治4年(1871年)6月、江戸城本丸の能舞台に椅子とテーブルを並べ、廃藩置県についての議事が論議されました。顔ぶれは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎、大隈重信、伊藤博文、江藤新平、井上馨などの新政府オールスターキャストで、そして栄一も「大内史」という書記官として参列していました。まず議題に上がったのは、「君主権」と「政府権」の区別についてで、このとき西郷はまだ出席していませんでしたが、木戸が、これは重大案件だから太政大臣の三条実美と右大臣の岩倉具視にもご出席願おうと提案し、栄一にその呼出状を書かせました。何しろ憲法発布より十数年も前のことなので、朝廷と政府の権限が定まっておらず、ここをちゃんと決めておかなければ、重大な国事を議するにおいて困ることが多い。しかし、皇室に関する事項なので、議論はなかなか定まりませんでした。書記官の栄一は、何度も草案を書き直させられたようです。
そこへ、西郷が遅刻してやってきました。そこで木戸がこれまでの経緯を説明すると、西郷は一座を見渡し、こう言ったそうです。
「まだ戦争な足り申さん」
君主権と政府権を区別する問題で、戦争が足りないとはいったいどういうことだろうか。いきなりの西郷の意味不明な発言に、一座はあっけに取られました。木戸は重ねて問題の要点を力説し、栄一も原案の執筆者としてそれに補足を加えました。しかし、西郷は、
「いや、話の筋はわかってい申すが、そぎゃんこと何の必要なごわすか?まだ戦争な足り申さん。も少し戦争せななり申さん」
と、戦争の一点張りで、こんな押し問答で2、3時間すぎるうちに憤慨して席を立つ者も現れ、その日の会議はお開きになりました。このとき栄一は、「西郷は少しウツケだな」と思ったそうです。しかし、後日、井上が聞いたところによると、西郷の真意はこうでした。君主権と政府権の問題はもっと国内が安定してから議すべきで、その前に政府は廃藩置県を断行しなければならない。しかし、断行すれば旧藩士たちが反抗するだろう。そうなると、戦争は避けられない。だから、政府はまず戦争の覚悟と準備をした上で、即刻廃藩置県を断行すべきだ、というものだったようです。これだけの内容を、「まだ戦争な足り申さん」の一語にまとめてしまう西郷。理屈が先に立つ栄一や大隈らからしてみれば、ちょっと理解し難い人種だったようです。
廃藩置県を断行するとなると、栄一の務める大蔵省では、諸藩で発行された藩札の引換をどうするかという大問題が浮上します。栄一は井上の指揮に従って、わずか両3日の間にその方法を立案し、数千枚に及ぶ処分案を井上に提出しました。その処分の大要は、藩の金穀の取締り、藩札の発行高、租税徴収法、その他、各藩において継続中の事業の始末等にまで及んでいて、複雑を極めたものでした。また、公債発行のことも、廃藩の処分に際して諸藩が豪商から借入れてある負債を年度によって区分し、新旧に分けて公債証書を付与するものとしました。これらを三昼夜ほぼ徹夜で整理したあたり、栄一の人間離れした能力の高さが伺えますし、また、同じく不眠不休で職務をこなした役人たちの働きもすごいですね。今なら完全にオーバーワークで訴えられます。世の中、働き方改革ですから(笑)。
かくして明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県の大詔が布告されました。その後、2、3の旧藩地に不穏な空気もありましたが、西郷が懸念(期待?)したような戦争は起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。
この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。
「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」
こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。
ドラマ中、大久保利通大蔵卿が役所で栄一らに軍事費800万円を決定したと伝え、それに栄一が抗うシーンが描かれていましたが、あれも実話のようです。このとき井上に辞表を提出したそうですが、井上になだめられて収まったそうです。ドラマの大久保はちょっと悪役に描かれすぎのような気もしますが、栄一が大久保と合わなかったのは事実のようですね。
また、栄一が大阪出張時に女中を部屋に引き入れたシーンで、SNSがざわついたそうですね(笑)。後年の『論語と算盤』などから道徳家としてのイメージが強い栄一ですが、女性関係の方はけっこうお盛んだったようです。そこはきっとドラマでは描かれないだろうと思っていましたが、サラッと描きましたね(笑)。ちなみに、ライバルの五代友厚も、やはり女性関係はお盛んでした。やはり、それぐらいエネルギッシュでなけりゃ、大きな商いなんてできないでしょうね。どうりでわたし、商売下手なはずです(笑)。
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by sakanoueno-kumo | 2021-10-11 16:25 | 青天を衝け | Trackback(1) | Comments(9)

渋沢栄一は明治2年(1869年)、29歳のとき、明治政府より出仕命令を受け、大蔵(現財務)官僚となります。で、その翌々年、大蔵卿(現財務大臣)に就任したのが、薩摩出身の大久保利通。西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新の三傑に数えられる人物ですが、そもそも、三人中、薩摩から二人出ている時点で、大久保が明治草創期に果たした役割の大きさがわかるかと思います。(本来のバランスを考えれば、薩摩から西郷、長州から木戸なら、もう一人はバランス上、土佐から出るべきで。)つまり、渋沢が「日本経済」の父だとすれば、大久保は「...... more
おディーン様の「君はここにいていいのか?」が意味深です。
あー赤い糸は反則でしょー!! 女遊びは奥様が亡くなった後と思っていたのに見る目変わった(笑)
この廃藩置県のときの栄一の働きは人間離れしていたようです。
廃藩置県というと、これまでどうしても旧武士たちの失業という観点で西郷や大久保ら政治家にスポットが当たってきましたが、考えてみれば、これほどの大改革の裏で栄一ら行政官の働きたるや、並々ならぬものがあったでしょう。
今回、そこにスポットが当たったのは斬新でしたね。
革命という意味でいえば、大政奉還や王政復古の大号令よりも、この廃藩置県が一番大きな革命だったといえますから。
おディーン様はこのとき既に退官していましたからね。
西の五代、東の渋沢といわれますが、残念ながら五代は早死にしちゃうので、渋沢とは比較しづらいですよね。
ただ、五代の場合、やはり新政府の薩摩閥というバックボーンがありましたから、その点でいえば、後ろ盾のない渋沢の能力はやはりずば抜けていたように思います。
今回出てきた女中の大内くには、たぶんまだ出てきますよ。
ネタバレになるのでこれ以上はやめときます。
五代は複数の女性との間に10人の子供を儲けたそうです。
徳川慶喜は、こののち美賀子との間には子供は出来ませんでしたが、静岡で隠居生活となって複数の妾とのあいだに10男11女の合計21人の子供を作ります。
「英雄色を好む」ですね。
わたしは妻一筋です(笑)。
戦後の第一銀行頭取だったかで、失脚した長谷川(?)何とかも、ご落胤と言われてました。
ちなみに、江戸幕府の初代大老、土井利勝も家康ご落胤説が彼の在世中からあったそうですね。
本人はその話を激しく嫌っていたそうですが。
栄一の庶子を「ご落胤」と言うのかどうか(笑)。
一般人ですし(笑)。
長谷川重三郎という人ですよね。
栄一の庶子のようですが、母親が誰かはわかりません。
ドラマの妾の大内くにではないようです。
土井利勝の家康ご落胤説は有名ですね。
あと、松平康重も家康のご落胤と言われていますね。
まあ、あの時代はそういう話はたくさんあったんじゃないでしょうか?
貴兄もどこかに内緒のご落胤がいたりするとか?
お気をつけください(笑)。
びっくりしました。
だって、もう、11月でしょ?
あと、10話ないんじゃないですか?
篤二くんの廃嫡騒動までやってたんじゃ、尺がたりないんじゃないですか?
それと、篤二はトクジですか?
私も最初、トクジと読んでいたんですが、渋沢敬三の著作だったかに、「アツジ」って出てきたんで、慌てて、講演の原稿を変えたんですよ。
以前は、Wikipediaも篤二とその弟たちの欄は形ばかりしかなかったんですが、その際も、トクジと見た記憶は無いんですよね。
いや、おかしいと思ったんですよ。
篤と敬は栄一が好きな言葉だったというから、だったら、敬三もタカゾウだろうと。
正確なところを教えてください、師匠。
ご落胤のことは誰にも言いませんので(笑)。
彼は片腕ですよね。(服部だったかも。いいかげんですみません(笑)。)
敬三が「二人、尊敬する人がいる。一人が祖父栄一、もう一人が長谷川重三郎」だったといったそうですが、でも、自分の業績を語るのが嫌いな人で、ほとんど、今ではその業績を伝えるのが難しいようですね。
>渋沢敬三が出るんですね。
スミマセン、わたしも知りませんでした。
大河ドラマのレビューを起稿するために史伝とかは読んで予習しますが、脚本とかの予習はしないようにしてますので。
先がわかっちゃうと面白さ半減になっちゃうじゃないですか。
>篤二はトクジですか?
わたしも正確なことはわかりませんが、栄一の四男の渋沢秀雄の本を参考に読んでますが、そこには「トクジ」とルビが打たれていました。
実弟の書いた本ですから、正しいんじゃないでしょうか?
この秀雄さんは昭和の終わりまで生きておられた方ですし。
長谷川重三郎じゃなかったんですね。
wikiに庶子と書いてあって、五代友厚は妾の子は決して実子あつかいせずに庶子としたそうですから、栄一も同じだったんじゃないかと勘違いしていました。