姉川古戦場めぐり。 その6 <遠藤直経の墓>
「その5」で紹介した陣杭の柳から300mほど南に、浅井氏の重臣・遠藤直経の墓があります。
ここは、元亀元年6月28日(1570年7月30日)に起きた姉川の戦いで遠藤直経が討死した場所と伝えられます。
遠藤直経は浅井長政の傅役的存在だったといわれ、長政が幼い頃から相談役を務めてきたため、長政からの信頼も厚かったといいます。
浅井氏がまだ織田氏と同盟関係にあったとき、近江佐和山城を訪れた織田信長の接待役を務め、その際、信長の底しれぬ才能を見抜き、信長の暗殺計画を長政に進言したという逸話があります。
しかし、長政は信義に反するとしてそれを受け入れませんでした。
信長が越前の朝倉氏を攻めるべく兵を進めたとき、浅井氏は織田との婚姻関係を重んじるべきか、朝倉との旧縁を重んじるべきかの決断を迫られますが、その際、直経は織田方につくべきであると強硬に主張したといいます。
直経は信長の手腕を大いに評価していたからと考えられますが、結果的に長政の父・浅井久政らが朝倉方につくべきと意見し、またしても直経の進言は入れられませんでした。
姉川の戦いで自軍の敗色が濃厚になると、直経は味方の武将・三田村左衛門の首を掲げ、、織田の武将に成りすまして信長本陣に入り込みますが、信長まであと数十メートルというところで竹中半兵衛の弟・竹中久作に見破られてしまい、捕らえられて斬首されたと伝わります。
たしかに、北に陣杭の柳が見えています。
陣杭の柳より先にここを訪れたので、ここから見た陣杭の柳を撮影していなかったのが残念。
その向こうに小谷城のあった小谷山が見ます。
小谷城をズーム。
写真右側に写っている高い柳の木が陣杭の柳です。
龍ヶ鼻砦はこっちです。
陣杭の柳側から見た遠藤直経の墓。
その南に横山城のあった横山が見ます。
かつては今の墓石の40mほど北の畑の中に「遠藤塚」と呼ばれる墓があり、直経の墓と伝えられてきたそうですが、昭和54年(1979年)に墓標が建てられ、平成9年(1997年)の圃場整備により、現在地に移されたそうです。
この地域の小字も「円藤(遠藤)」というそうです。
「その7」につづきます。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2021-10-16 21:58 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)