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青天を衝け 第35回「栄一、もてなす」 ~グラント将軍の接待~

青天を衝け 第35回「栄一、もてなす」 ~グラント将軍の接待~_e0158128_17310719.jpg渋沢栄一たちが創設した東京商法会議所が最初に手掛けた大仕事は、アメリカより来日したグラント将軍の接待でした。ユリシーズ・シンプソン・グラントはアメリカの元軍人で、南北戦争では北軍の総指揮執って南軍を下した英雄でした。その後、共和党から大統領選に出馬して当選し、18代アメリカ合衆国大統領として明治2年(1869年)から明治10年(1877年)までの28年間を務めます。明治4年(1871年)12月に岩倉使節団がワシントンを訪れた際、大統領として謁見したのもグラントでした。そして大統領退任後、彼は2年間世界一周旅行をします。日本に訪れたのは明治12年(1879年)73日から93日までの2ヶ月間で、日本政府は彼を国賓として歓迎しました。


青天を衝け 第35回「栄一、もてなす」 ~グラント将軍の接待~_e0158128_17354137.jpg 東京商法会議所は、東京府民によるグラント将軍の大歓迎会を計画しました。ところが、会頭の栄一や副会頭の福地源一郎が、「東京府民を代表して」と言ったために、これを報知新聞が非難しました。いわく、東京府民は渋沢や福地に代表を依頼した覚えはないのに、勝手に代表を名乗るなどケシカラン!・・・と。たしかに、もっともな理屈といえます。ドラマでも街頭で批判していましたね。もっとも、報知新聞の批判はそういう正義からきたものではなく、ひとつには福地主宰の東京日日新聞に対する挑発だったようですね。ともかく、栄一らはこの批判を受けて、「代表」という言葉を撤回したようです。


 横浜に着したグランド将軍は、岩倉具視伊藤博文の出迎えを受け、その後、汽車で東京にやってきました。栄一たちは新橋駅で将軍を迎え、代表して栄一が駅頭で歓迎文を朗読しました。これは、かつて栄一が民部公子(徳川昭武)の随員として洋行したときに受けた歓迎の辞を真似たものだったようです。


青天を衝け 第35回「栄一、もてなす」 ~グラント将軍の接待~_e0158128_17412651.jpg グラント将軍が栄一の王子飛鳥山隣地の別荘を訪れた話は実話です。後年、栄一の長女・穂積歌子「グラント将軍歓迎の思ひ出」と題して語ったところによると、ある日、夕方に栄一がいつもより早く帰宅し、母の千代はじめ一同が玄関に迎え出ると、栄一はいつになく慌てた様子で、「サアサア大変忙しいことが出来たよ、明後五日にグラント将軍一行を此家へ御請待することになつた」といい、千代がオヤオヤと言っているなか、栄一は服を着替える間もなく事の経緯を伝えると、いつもは控えめで億劫な気質であるはずの千代が、「それはそれは将軍程な偉大な御人物を御家へ御迎へ申すことが出来るとは、何といふ光栄でありませうどうなりともして精々よく準備をとゝのへて御来臨を仰ぎたいものです」と言ったので、栄一は大いに喜んだといいます。「ぐるぐるいたします!」とは言っていなかったようですが(笑)、ほぼドラマのとおりです。臆することなく接待の支度に取り掛かった千代の意外な一面に歌子は驚いたようですね。


 同じく歌子の回想によると、「グラント将軍の夫人は御旅館の延遼館でおみ足を蚊にさされたが、其あとが腫れて一両日靴をはくことが出来ぬ為とて、前から御断りで今日不参でありましたのは誠に遺憾なことであります」とあります。ドラマではグラント夫人も同伴で渋沢邸を訪れていましたが、実際には、蚊にさされた足が腫れて靴が履けず、欠席だったようですね。もっとも、ドラマで描かれていたように蚊に刺された話は実話のようです。また、当日は余興として、榊原健吉社中の撃剣、磯又右衛門社中の柔術各数番、女流武芸者の長刀の型木太刀と長刀の仕合などが行われたそうです。歌子の記憶では相撲はなかったようですね。もちろん、栄一とグラントが相撲をとった話も創作でしょう。また、千代が機転を利かせて「煮ぼうとう」を振る舞ったという話も歌子の回想には出てこないので、おそらくドラマの創作でしょうね。もっとも、千代が接待に力を尽くしたというのは事実で、これも歌子の回顧談によると、グラント将軍を見送ったあと、残った接待委員たちが千代に対して、「奥さん今日は大した御尽力で委員一同が深く感謝致します。此請待会は予期以上の成功で将軍を始め一行の人々が、今日程くつろいで機嫌よく談笑せられたことは時々御同席した私共でも始めて見る位でした。此御請待は日米の和親上に多大な好影響であります」と、丁寧にお礼を言ったそうです。そして歌子は回顧談の最後を、こう結んでいます。


 「現今の様に招客の設備について専門的に熟練した人があるではなしいさゝか物慣れた二・三の人々を相談あいてに一から十まで母上が指図して手落ちなく行渡る様に尽力なさつたのですから、其御骨折は今では想像にも及ばぬ程であつたのであります。」


 千代、まさに内助の功ですね。

歌子の回顧談は<デジタル版『渋沢栄一伝記資料』>で全文読めますので、よければ。


青天を衝け 第35回「栄一、もてなす」 ~グラント将軍の接待~_e0158128_17435748.jpg グラント将軍の日本滞在中のメインイベントは、825日に東京の上野公園で行われた歓迎式典でした。この式典には明治天皇臨幸されたのですが、ところが、この当時、東京にはコレラが流行り始め、岩倉具視らから天皇の臨幸を反対する声が上がり、イベントの開催も危ぶまれたそうです。なんか、今のコロナ情勢と似ていすね。もし中止になると、国賓に対して申し訳がたたず、東京商法会議所の面目も丸つぶれとなり、今後の日米関係にも悪影響が出ないとも限りません。しかし、イベントを強行して天皇がコレラに感染でもしたら、それこそ一大事です。さすがの栄一もこのときばかりはどうしていいか分からず、悩んだすえ、東京府知事楠本正隆に泣きつきました。すると知事は、「上野公園にご臨幸を仰ぐだけのことだから、コレラの心配はないはず。わたしは東京府知事の立場から、たとえ一身を賭してもご臨幸の実現を政府に働きかけます」といい、楠本知事の奔走で予定通り実行されました。立派な知事さんですね。小池さん、吉村さん、見習ってください。何でもかんでも人の動きを止めりゃいいってもんじゃない。ウイズコレラ、ウイズコロナですよ。


 上野公園での歓迎会は、流鏑馬、犬追物など日本古武術を披露し、夜は工部大学で西洋式の夜会を催しました。また、新築されたばかりの新富座で歓迎の観劇会を開き、グラント将軍にちなむ芝居を上場したそうですが、一説には、その脚本を担当したのは福地源一郎だったとも。福地はのちに福地桜痴居士として劇作家となりますからね。このときが処女作だったのかもしれません。


 このときのグラント将軍への接待は、国際社会に顔を出したばかりの日本がはじめて取り組んだ「お・も・て・な・し」だったといえるかもしれません。このあとグラント将軍は大の親日派になったといいますから、栄一らの「お・も・て・な・し」は、成功だったといえるでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2021-11-16 17:45 | 青天を衝け | Trackback | Comments(2)

 

Commented by kumikokumyon at 2021-11-19 11:30
旅行続きでグルングルンしていたもので
先ほど35話をみました。
あのグラント将軍が大統領退官後とはいえ
日本に来ていたとは!卒論が風と共に去りぬと
南北戦争に関する物だったのに・・・・知りませんでした。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-11-20 00:37
> kumikokumyonさん

アメリカ大統領経験者で訪日した初の人物だったようですね。
軍人としては英雄だったグラント将軍も、大統領としてはあまり指示されませんでした。
でも、日本では、日光東照宮を訪問した際に天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで、高い評価を受けることとなったそうです。
グラント将軍もたいへん親日家になったそうですしね。

「風と共に去りぬと南北戦争」の卒論、読んでみたいです!
Tomorrow is another day.

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