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青天を衝け 第36話「栄一と千代」その1 ~妻、千代の死~

 渋沢栄一の妻・千代が亡くなったのは、明治15年(1882年)714日のことでした。享年42。死因は当時流行っていたコレラでした。


 栄一と千代が結婚したのは安政5年(1858年)、栄一が数え19、千代が数え18のときでしたから、二人の夫婦生活はほぼ四半世紀、今の習慣でいえば銀婚式目前といったところでした。なので、女性関係にお盛んだった栄一といえども、さすがにこのときばかりはショックだったでしょうね。結婚後すぐに尊王攘夷活動で家を出て、その後、一橋家仕官から幕臣となり、パリに渡ったかと思えば、帰国したら今度は新政府の役人となり、と思ったら辞表を出して今度は実業家となり・・・。その間、ずっと支えてくれた妻です。栄一は自伝や回顧談ではほとんど千代のことは語っていませんが、妻に苦労をかけてきたという思いはあったに違いありません。きっと、感慨も嘆きも深かったことでしょう。


青天を衝け 第36話「栄一と千代」その1 ~妻、千代の死~_e0158128_21334885.jpg 栄一は千代の死についてまったく語っていませんが、長女の穂積歌子は、「はゝその落葉」の中で詳しく語っています。それによると、千代はコレラの流行をひどく恐れていたようで、そこで、結婚間もない穂積夫婦は77日に千代を連れて閑静な飛鳥山の別荘に移りますが、713日に千代は突然病に倒れ、力を尽くした看護の甲斐もなく、14日の夕方に亡くなったようです。発病からわずか1日での死だったようですね。歌子は、「父上はじめ誰も誰も、只夢に夢みる心地がして何事も手につかず、ことに私たちは、世もこれで尽きはてた様に思はれて歎きまどう外は無かつた」と回顧しています。また、コレラを罹患したことを役書に届け出ると、「検疫係りの警官が出張し、みだりに病室に出入することを禁じられ、看護人も始めに定めた人々の外は許るされぬなど、勿論当然の処置であるけれど、世事に慣れぬ婦人たちには、何やら御病人が罪人視される様に思はれて、此上なく情無い気がした」と嘆いており、また、いよいよ臨終というときも、「常には片時も傍を離されなかつた愛児たちにも、取りすがつて泣くことすら許されず、間を隔てゝ伏し拝ませるばかりであつた。涙ながら訣別せられた父上が泣入る琴子・篤二の二人を引きつれて、病室を去られた時の有様は、時々目先にちらついて、私の為には生涯の悲劇である」と語っています。今でいうソーシャルディスタンスですね。コレラは今のコロナなんかより何十倍も致死率の高い怖い感染症ですから、仕方がないといえばそうなんでしょうが、「病人が罪人視される様」とか、「間を隔てゝ伏し拝ませるばかり」とか、今のコロナの世と同じですね。死の淵に寄り添うこともできないというのは、悲しいことです。


 栄一が千代の死を兄である尾高惇忠に伝えた手紙が残っています。ドラマでは惇忠は千代の死を知って駆け付けていましたが、実際には、この頃惇忠は第一国立銀行の盛岡支店長で、駆け付けてはいなかったようです。以下、栄一の惇忠宛の書状。


本書冒頭破損ニツキ上略。

十三日夜ハ先相凌、翌十四日ニ至り、早朝より又外国医師ベルツと申すもの相招、且池田・佐藤も交々来会候得共、如何とも方策無之と相見ヘ、午後四日《(時カ)》ニ終焉仕候、誠以丹精之甲斐も無之、小生ハ勿論、家眷一同悲傷無涯、御憐察可被下候

右様之急症ニ付、不得已医師と相談し、類似虎列剌と御届もいたし候故、葬儀も内葬式ニいたし置、他日本葬式可致と存し、即死去之夜ニ規則之如く火葬ニ取計、今日上野寛永寺墓地ニ埋骨仕候(午後三時)血洗島手計又吉見抔ハ近傍ニ付立会来候得共、貴方仙台等ハ追而本葬儀之時と存し、態と御出京無之様、電報も仕候義ニ候間、不悪承引可被下候、真ニ可惜之至、所謂苦労中ニ右様之劇症ニ感し、生前ニハ充分後事相議候場合ニも不相成、遺憾之至に候、併当春長女新婚も相済穂積も同居為致候間、看護其外ハ頗行届候ニ付、敢而只残懐と申のミニも無之候、只可憐ハ手計おくに抔、真ニ慈母ニ離れ候想を為し、悲傷如何とも困却、且長女及子供両人後来之世話方ニハ小生も殆困却仕候、僅々両日之間病気、死去後又両日ニても妻も失て子之愛を増し申候、右ニて百事御推察可被下候

右者不取敢今日寸間を得、凶報詳細申上度如此御坐候 匆々

  七月十六日

                      渋沢栄一

    尾高大兄

 尚々御一同ヘ宜御願申上候

 此度ハ大川姉・勝五郎・平三郎、其他いつれも実ニ勉強看病もいたし呉、且後事之世話も行届申候、聊荊妻平日之世話甲斐有之候事と小生も大悦之至ニ候、右等ハ不幸中之幸福ニ御坐候

 両日を過候得共一同無事、先心配無之候、乍去予防注意ハ充分ニいたし居候、御省念可被下候


青天を衝け 第36話「栄一と千代」その1 ~妻、千代の死~_e0158128_16424269.jpg ほとんどが淡々と死に至る経緯を報告した文章ですが、「小生ハ勿論、家眷一同悲傷無涯、御憐察可被下候(わたしはもちろん、家族一同皆悲しみは限りなく、お察しください)という一文のみ、悲しい感情を顕わにしています。また、「且長女及子供両人後来之世話方ニハ小生も殆困却仕候(ただ、長女と子供たちの世話にはわたしも困っています)と伝えた上で、「妻も失て子之愛を増し申候(妻を失って子供への愛情が増しました)と語っています。そんなものなんでしょうかね。ドラマでは長女の歌子がいちばん取り乱していましたが、事実もそうだったかもしれません。歌子は幼少期は母子家庭のようなものでしたからね。その母の突然の死は受け入れ難いことだったに違いありません。


 歌子の「はゝその落葉」や栄一の惇忠宛の書状は<デジタル版『渋沢栄一伝記資料』>からの引用です。


 千代の死だけで長くなっちゃったので、明治十四年の政変東京風帆船会社の設立の話は明日、「その2」にて。



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by sakanoueno-kumo | 2021-11-22 21:37 | 青天を衝け | Trackback | Comments(2)

 

Commented by kumikokumyon at 2021-11-23 10:26
42歳だったなんて、これから楽し事が一杯あっただろうに。発症から一日で亡くなるって別名「コロリ」の恐ろしさですね。
下手したらコロナより怖いです!!私の小さい頃はまだ「コレラ」は身近な恐ろしい病気だったように記憶します。今は聞かなくなりました。
感染を思うと臨終まで手を握っていたあの場面は創作でしょうけれど、栄一には後添えがいるとはいえ唯一の心から支え合った妻だったのではないでしょうか?

Commented by sakanoueno-kumo at 2021-11-23 21:51
> kumikokumyonさん

2日前まで普通に元気に暮らしていたわけですから、遺族にしてみたら、事故でに遭って突然死んだようなもので、にわかに受け入れられなかったでしょうね。
おっしゃるように、18、19のときから四半世紀連れ添った妻ですから、妾や後添えでは代わりにはならないでしょうね。
夫婦同時に死ぬわけにはいかないので、いつかは、どちらかが先に逝くのですが・・・。
明治はまだ人生50年の時代ですが、栄一の場合、満91歳まで生きますから、千代が死んでからの人生の方が長いというのも、皮肉な話です。

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