豊臣秀吉が初めて主となった出世城、近江長浜城を歩く。その2 <天守跡・太閤井戸>
「その1」のつづきです。
模擬天守をあとにして、城跡公園(豊公園)内を歩いてみましょう。
西側にこんもりと盛り上がった場所があり、その上に石碑と銅像が見えます。
どうやらここは天守跡のようです。
石碑は「長浜城天守閣跡」と刻まれています。
ただ、この「天守閣」という呼称は本来正しくありません。
史料に出てくるそれは「天守」もしくは「天主」で、「閣」は付きません。
「天守」に「閣」を付けて呼ぶようになったのは、通天閣など高い建物に閣を付ける習慣がついた近代になってからのこと。
学者さんたちは、皆、「閣」は付けませんね。
こういった石碑も、本来「閣」を付けるべきではないでしょう。
また、そもそも、長浜城に天守があったのかどうかも分かっていません。
長浜城は秀吉が初めて築いた城。
まだ織田信長もあの立派な天主を頂く安土城を築いていない時期で、秀吉が何重もの立派な天守のある城を築いたとは考えづらいですね。
じゃあ、この石碑はどういう根拠で「天守閣跡」と刻んでいるのでしょう。
石碑の横には、秀吉像があります。
昭和46年(1971年)に建てられたもののようです。
顔でかっ!(笑)
大坂城内の豊国神社にある像や、長浜駅前にある秀吉像とは、ちょっとイメージが違う気がしますね。
秀吉といえば、体も顔も小さくて華奢なイメージです。
この像は秀吉というより、三国志に出てくる古代中国の武将って感じです。
石碑の横に説明板があったのですが、汚れていて読めません(苦笑)。
天守の西側の琵琶湖畔へ向かいます。
「太閤井戸」と書かれた誘導看板があります。
琵琶湖畔に石碑が建てられています。
逆光で文字が見づらいですが、「太閤井戸」と刻まれています。
こんな水際に本当に井戸があったのか?・・・と思ってしまいそうですが、往時の長浜城は、今よりもっと西に張り出していたようです。
この太閤井戸の約100m沖合で、文政2年6月12日(1819年8月2日)に発生した文政近江地震で水没したものとみられる建物跡の遺構が水中で発見されたそうで、長浜城がこの先にまだ続いていたことがうかがえます。
この太閤井戸は満潮時には石碑だけが露出するそうですが、実際の太閤井戸は、もっと沖合にあったそうです。
模擬天守の南側に、「長浜城石垣出土地」と刻まれた石碑があります。
説明板によると、従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していたそうで、昭和44年(1969年)7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められることになり、同年11月下旬から約1ヶ月間、水底の発掘調査をしたところ、石垣の痕跡と認められる30数個の巨石が、延長約30mにわたって整然と列をなしていることがわかったそうです。
秀吉がここに城を築く以前にも、ここには北近江を支配していた京極氏の出城があったとされます。
その城を最初に築いたのは、『太平記』で婆娑羅大名として知られる佐々木道誉だったと伝わります。
南側から模擬天守を見上げます。
さて、城跡公園(豊公園)内はだいたい見て回ったので、公園の外を歩いてみましょう。
「その3」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-12-01 11:49 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
もう、行く機会はないだろうなあと。