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豊臣秀吉が初めて主となった出世城、近江長浜城を歩く。その3 <内堀、外堀跡・山内一豊屋敷跡>

「その2」のつづきです。

城跡公園(豊公園)の外にも、各所に城跡を示す石碑があります。


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JR長浜駅西側の通りには、「長浜城内堀通り」と刻まれた石碑があります。


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その内堀通りから望む長浜城模擬天守です。


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JR長浜駅です。


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その長浜駅構内の壁面に、豊臣秀吉と長浜城が描かれた巨大なガラスモザイク壁画があります。

長浜はガラス工芸の町でもありますからね。


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駅の東側には、「長浜城外堀跡」石碑があります。


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石碑の裏側の説明書き。

外堀は30ほどあったそうです。


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駅周辺の町を歩いていると、マンションの片隅に夫婦像のようなモニュメントを見つけました。


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近寄って説明板を読んでみると、「伊右衛門屋敷と山内一豊」とありました。

「伊右衛門」山内一豊の通称で、秀吉の家臣だった武将ですね。

故・司馬遼太郎の名作『功名が辻』で妻・千代とともに主人公として描かれ、平成18年(2006年)の大河ドラマにもなりました。

山内一豊は天正11年(1583年)から6年間、ここ長浜城の城主となっていますから、ここにその屋敷があったということでしょう。


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ということは、この夫婦像のようなモニュメントは一豊と千代でしょうね。

千代は「内助の功」で一豊の出世を手助けした良妻として有名ですね。

もっとも、二人はこの長浜城に住んでいた天正131129日(1586118日)に天正地震に見舞われ、城が全壊して一人娘の与祢を失うという不幸に遭っています。

このことについて『一豊公紀』には、「十一月二十九日 於江州長浜宇内、大地震。山川転動裂壊家屋、顛潰長濱之御城殿崩、與禰姫様喪亡、御歳六歳。号光景妙円是。見性院様御腹子也。此時、御家人乾彦作和信始数拾人死。」と記されています。

数え6歳だったんですね。


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そんな悲しみをバネに一豊はその後も出世し、最終的には土佐24万石の大大名になります。

長浜城は秀吉の出世城というだけでなく、一豊の出世城でもあったんですね。


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秀吉が天下人として駆け上がる中で、数多くの城を築きましたが、最初に築いたのがここ長浜城でした。

豊臣秀吉の天下取りは、ここ長浜城から始まったといえます。

次稿では、近くにある秀吉を祀った豊国神社を訪ねます。




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by sakanoueno-kumo | 2021-12-02 12:19 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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