長浜豊国神社を参拝
長浜城本丸跡のある豊公園から南東に400mほど歩いたところに、豊国神社があります。
ここはその名称からもわかるように、「豊国大明神」こと豊臣秀吉を主祭神とする神社です。

鳥居の扁額には「豊国大明神」とありますね。

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は伏見城にて63歳の生涯を閉じましたが、その3回忌に当たる慶長5年(1600年)、長浜の領民たちがその遺徳を偲んで建立した神社だそうです。

ところが、江戸時代に入ると徳川幕府の命によって秀吉を祀ることが禁じられ、社殿が取り壊されました。
しかし、御神像は町民によって町年寄の家へ移され、その後、八幡宮の古堂を移築して恵比須神(事代主)を祀る神社として復興しましたが、恵比須神がある本殿の奥で密かに秀吉を祀り続けたそうです。
明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建されました。

ちなみに、豊国神社は京都や大阪、名古屋など秀吉ゆかりの地に複数ありますが、「とよくにじんじゃ」と「ほうこくじんじゃ」の2種類の読み方があります。
ここ長浜は「ほうこくじんじゃ」、京都は「とよくにじんじゃ」で、大阪は「ほうこくじんじゃ」と読みます。
その理由はよく分かりませんが、一説には、「とよくに」が秀吉ひとりを祭神としているのに対し、「ほうこく」は、秀吉以外の人物を合祀しているということだそうです。
たしかに、ここ長浜豊国神社は、秀吉のほかに事代主大神、加藤清正、木村重成を祭神としていますからね。

手水舎です。
秀吉の馬印の瓢箪から水が出ます(笑)。

そして、こちらが明治31年(1898年)に再建された拝殿。

拝殿の横にも千成瓢箪が。



拝殿のあちこちに秀吉の家紋の桐紋(五七の桐)があしらわれています。

駒札には祭神の名前があります。
加藤清正は説明するまでもなく、賤ケ岳の七本槍の一人でのちの熊本城主ですね。
木村長門守とは、木村重成のこと。
豊臣家滅亡の大坂夏の陣の際、勇猛果敢に戦い、20歳過ぎの若さで命を落とした武将です。
徳川家康が討ち取られた重成の首を検分したところ、頭髪に香が焚きこめてあったので、家康はその覚悟を大いに称えたという逸話が残っています。

境内には、加藤清正像があります。

モロ逆光で見づらいですが・・・。

清正は尾張国出身ですが、秀吉と遠縁の親戚だった縁で、秀吉が長浜城主になった頃に小姓として仕えました。
それで、ここに合祀されているのでしょうが、それでいえば、同じ頃に福島正則も小姓となっているのですが、なぜ清正だけ祀られているのでしょうね。

境内には、その清正と秀吉に由来する「虎石」という大きな石があります。

説明板によると、清正が長浜城内の庭に献じた石を、清正を可愛がっていた秀吉が「虎石」として寵愛していましたが、江戸中期、長浜城より大通寺の庭にこの石を移したところ、「いのう、いのう」(帰ろう)と泣くので、元に戻して収まったという伝承があるそうです。
その後、秀吉と清正が祀られているこの神社に移されたそうです。

その「虎石」がこれ。

どう見てもただの石ですね(笑)。
まあ、石や岩を神格化するというのは、日本各地にある話です。
長浜城内にあった石というのは、本当の話かもしれません。

秀吉が長浜城主だったのはたったの3年間。
その間も、播磨攻めに出陣していたため、長浜の地にゆっくり腰を据えたことはほとんどなかったのではないかと想像します。
ところが、長浜の地では、その後も、そしてその死後も、ずっと領民から慕われていた秀吉。
さすがは人たらしですね。
そもそも、秀吉が「長浜」という地名の名付け親でもあるわけですからね。
ここに豊国神社が鎮座するのは当然だったといえるかもしれません。
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by sakanoueno-kumo | 2021-12-03 10:46 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)