近江佐和山城攻城記。 その2 <登山道~西の丸>
「その1」のつづきです。
石田三成像の前を通り、龍潭寺山門に向かいます。

龍潭寺山門です。

龍潭寺については、また別稿で紹介しようと思います。

本堂脇を通って佐和山城跡への登山道に向かいます。

本堂の裏は龍潭寺の墓地になっています。
その中を進みます。

古い墓石が並びます。

「佐和山城跡」と書かれた誘導板があります。
ここから、ガッツリ登山です。

といっても、道はハイキングコースとして整備されており、険しくはありません。
標高232m、比高140mほどの気持ちいいハイキングです。

龍潭寺山門から登り始めて約10分。
切通しの遺構が現れました。
パンフレットによると、絵図に「かもう坂通往還」と記されている切通しで、佐和山城の北を限る道であり、東山道と琵琶湖畔の松原をつなぐ道として、旅人が頻繁に往来していたそうです。

右へ行けば、西の丸、本丸へ続いています。

山頂を目指します。

少し道が険しくなってきました。

明るく開けた場所が見えてきました。

「塩硝櫓跡」と書かれた木柱が朽ちています。
どうやら、ここは曲輪跡のようです。

中央に謎の土坑があります。

曲輪の奥に、説明板があります。

説明板には「西の丸(塩櫓)」とあります。
さっきの木柱は「塩硝櫓」で、こっちは「塩櫓」となっていますね。
土坑の写真もありますが、「用途は不明」と書かれています。

縄張り図の拡大です。
西の丸は3段曲輪になっていて、ここは北の最下段の曲輪のようです。

周囲に土塁がめぐっていると書かれていますが、ここを訪れたのは令和2年(2020年)8月1日の真夏日。
草が生い茂って土塁がどこにあるかわかりません。

南へ進んで、西の丸中段曲輪にやってきました。

中段曲輪は現在竹やぶになっていて、中央に道がついているだけになっているため、全容がわかりません。

西の丸上段に登ります。

西の丸上段曲輪です。
やはり、こちらも竹やぶとなっています。

佐和山城といえば石田三成の城というイメージですが、北近江の要衝に位置する佐和山城の歴史は古く、その起源は鎌倉時代まで遡ります。
当時、近江国守護だった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされます。

戦国時代には佐々木市嫡流の六角氏の支配下となりますが、六角氏の弱体化と浅井氏の台頭にともない、浅井氏の属城となり、浅井氏家臣の磯野員昌が城代として入ります。
浅井氏と織田氏が激突した姉川の戦いでは、員昌は佐和山城に籠城しますが、その際、羽柴秀吉が流した「員昌に謀反の疑いあり」という流言を信じた浅井長政は、佐和山城を見捨てます。
員昌は孤軍奮闘するも、激戦の末、8ヶ月後に降伏。
佐和山城は織田軍の手に渡り、丹羽長秀が治めることになります。

西の丸上段曲輪のいちばん奥に、また説明板があります。

こちらには、「西の丸跡」とだけ書かれています。
その説明文によると、彦根藩主井伊家に伝来した佐和山城絵図によると、この上段曲輪に「焔硝櫓」、下段に「塩櫓」と記されているそうですが、現在は下段を「塩硝櫓」と通称しており、名称の混乱が見られるとこのこと。
「焔硝」は火薬のことですが、「塩硝」はどういう意味でしょう?
確かに混乱しています。

説明板の縄張り図を見ると、西側にも出丸のような曲輪があるようです。

確かに、誘導看板もあります。

ところが、そこへ行く道がない。

切岸が急すぎて、滑り落ちそうで危険と判断し、西側の曲輪へ行くのはやめました。

その西側斜面に伸びる竪堀です。

西の丸上段曲輪の最上段の堀切跡。

さて、西の丸をあとにして、先に進みます。

西の丸上段から登ること約5分。
明るい場所が見えて来ました。
いよいよ本丸のようです・・・が、長くなっちゃったので、「その3」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-12-10 00:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)