青天を衝け 第39話「栄一と戦争」 ~栄一の渡米と慶喜の伝記編纂~
明治35年(1902年)5月、渋沢栄一は妻・兼子を連れてアメリカとヨーロッパに出掛けました。随行者は、英語の堪能な第一銀行横浜支店長の市原盛宏が通訳に当たり、その他、栄一の秘書の八十島親徳、第一銀行文書課長の清水泰吉、東京商議所書記長の萩原源太郎、石川島造船所の専務・梅浦精一、そして、前々年に帝大電気工科を卒業した甥の渋沢元治もいました。栄一の生家「中の家」は、栄一の妹の貞が婿養子を迎えて跡をついでいましたが、元治は貞子夫婦の息子です。晩年、栄一は民間外交に尽力するようになりますが、この旅行は、あくまで栄一のプライベート旅行だったようです。
5月15日、栄一らを乗せた船は横浜を出発しました。ドラマでは描かれていませんでしたが、5月16日の東京日日新聞によると、このとき新橋駅に大勢の人たちが見送りに来たそうで、桂太郎総理大臣、小村寿太郎外務大臣を始め、現役の閣僚や政治家が多数、徳川家達公爵や板垣退助伯爵ら華族、日本銀行総裁の山本達雄ら財界人など、錚々たるメンバーが見送りに来ています。そして同新聞には、「関係せる各種団体・銀行・会社員等無慮千三・四百名にして、プラツトホームは殆んど立錐の余地なく、停車場の広場も亦見送人の馬車・人力車数百台を以て塡充せり」とあります。海外旅行が珍しい時代だったとはいえ、一民間人の見送りに総理大臣以下1300人以上が訪れたとは、普通じゃないですよね。この頃の栄一がいかに国家の要人であったかがわかります。<参考:デジタル版『渋沢栄一伝記資料』東京日日新聞 第九一八三号 明治三五年五月一六日>
一行のアメリカ滞在は約1ヶ月でした。ドラマで描かれていたように、6月16日にはホワイトハウスで第26代大統領のセオドア・ルーズベルトと会見しました。63歳の栄一に対し、ルーズベルト大統領は45歳。ドラマで娘婿の穂積陳重が言っていたように、正式な使節でもない一民間人に大統領が会うなど、異例中の異例だったようです。このとき大統領は、日本の美術と軍事をべた褒めしたそうで、特に北清事変(義和団の乱)における日本軍の厳正な行動に対してはロシア、ドイツ、フランス、イギリスなど各国が敬服したと述べ、アメリカ軍隊も模範としたいぐらいだと褒めちぎりました。すると栄一は、こう答えました。
「我国の美術及び軍事に関し、閣下より賞賛の辞を聞くは実に満足の至りに堪へず、併し余は現に実業に従事するものなるが、我国の商工業は夫の美術・軍事等に比すれは其名声極めて寂々たるの感あり、故に余は今後益々奮励して商工業の発達に勉め、他日再び閣下に拝謁するときは閣下より我国の商業に関し更に同一の賛辞を辱ふせんことを期す」
美術や軍隊を褒めてもらって嬉しいけど、わたしは実業家なので、商工業も褒めてちょーだい、と。ドラマのとおりですね。これを聞いた大統領は、今後もあなた(栄一)が商工業の発達に勉めらるなら、必ずや良い結果になるでしょう、と答えたそうです。<参考:デジタル版『渋沢栄一伝記資料』竜門雑誌 第一七〇号・第二四―二六頁 明治三五年七月>
ちなみに余談ですが、この13年後の大正4年(1915年)に三度目のアメリカを訪問した栄一は、すでに大統領を退いていたルーズベルトの私邸に招かれたそうで、このときの談話は主としてカリフォルニアの日本移民問題でしたが、あとで栄一が13年前の昔話を持ち出したところ、ルーズベルトもよく覚えていて、「今日は日本の商工業を大いに褒めますよ」と笑いながら言ったそうです。
このあと栄一一行はイギリス、ドイツ、フランス、イタリアをめぐり、10月31日に帰国しました。
栄一が肺炎を拗らせて死にかけた話は実話です。明治36年(1903年)11月にインフルエンザに罹り、その後、中耳炎を併発し、明治37年(1904年)5月には肺炎を患い、全快するまで半年かかったそうです。ドラマで息子の篤ニが言っていましたが、日清戦争のときは癌、そして日露戦争のときには肺炎と、栄一は不思議なめぐり合わせで大戦争というと大病に見舞われています。栄一はこの大病を転機として、数多い関係会社から身を引く決意をしたようです。
日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)は明治38年(1905年)10月に締結されました。しかし、その直前、連戦連勝に酔っていた国民は、新聞が報道した条約の内容を不満として政府や全権・小村寿太郎外相を非難攻撃し、東京では電車の焼き討ちや交番の襲撃などの過激な事件が起こりました。そこで栄一はある会合で、今回の条約は現状から見てこれ以上は望めまいという主意を述べ、小村外相を弁護しました。すると一部の過激な群衆は、栄一の飛鳥山の邸を焼き払うと息巻きましたが、このときは赤羽工兵隊の出動で事なきを得たそうです。いつの時代も、大局を見ずに過激な行動に走るヤカラはいますね。
栄一のもうひとつのライフワークとなる徳川慶喜の伝記編纂が始まりましたね。栄一が慶喜の汚名を雪ぐという趣旨で伝記の作ろうと思い立ったのは10年以上前だったようですが、当初は慶喜の許可がおりず、最終的には、世間に公表するのは慶喜の死後相当の時期においてという条件を受け入れることで、ようやく慶喜の許可がおりたそうです。この編纂事業は、伝記を作るために集められた編纂員に答えるかたちで進められました。オーラル・ヒストリーの先駆と言っていいでしょうね。
今回のヒヤリングで印象に残った慶喜の言葉。
「人には生まれついての役割がある。隠遁は、私の最後の役割だったのかもしれない。」
慶喜が本当にこう言ったのかどうかはわかりませんが、たしかに、明治になってからの慶喜は旧幕臣や明治政府に不満を持つ元士族などには決して会わず、ひたすら息を潜めて暮らしていました。おそらく慶喜は、自身がそれらの者たちに担がれたらどんな混乱を起こすか、自身の言動がどう政治的に利用されるか、ちゃんとわかっていたんでしょう。慶喜にとっては、隠遁が政治だったんですね。32歳という血気盛んな年齢から隠居の身となり、その後、新政府に対して事を荒立てるような行動をいっさい起こさなかった慶喜。通常、歴史上の偉人は何事かを成して歴史に名を刻みますが、慶喜の場合、何もしなかったことが最大の功績だったといるのではないでしょうか。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2021-12-13 20:51 | 青天を衝け | Trackback(1) | Comments(2)

渋沢栄一は、宿敵、三菱の岩崎弥太郎との死闘の最中、妻・千代をコレラで亡くしたが、栄一の嫡男篤二はこのとき10歳。普段、家にいない父が看病に帰ってくるのが嬉しかったと、何ともいじらしい言葉を遺しているが、その父は妻死去の翌年、あっさり再婚。栄一としても地位ある身。いつまでも独り身というわけにはいかなかったのだろうが、これにより、篤二少年は新婚の姉夫妻に養育される身となる。ただ、姉もこのとき、まだ19歳。責任感の塊と化したのはいいが未熟は否めず、一方、その夫はまじめ一筋の東大法学部教授。肩書だけなら、理...... more
栄一の欧米視察は時期が時期だけに、単なるプライベート旅行でもなかったでしょう。
イギリスでは、松方正義、岩崎弥之助と一緒になってますが、彼らも皆、「単なるプライベート旅行でたまたま」と。
明治に入ったばかりの頃はそうだったかもわかりませんが、ある程度たってからは、慶喜を暗殺する理由もなかったんじゃないでしょうか?
少なくとも薩長側にとっては、もう過去の人ですよね。
慶喜を狙うとしたら旧旗本?
ちょっと自意識過剰な気がしますね。
栄一の欧米視察については、わたしが読んだ本には「私的な旅行」と書いてあったのでそう述べたのですが、たしかに、表向きは私的な旅行でも、内実は違ったかもしれませんね。