青天を衝け 第40回「栄一、海を越えて」その2 ~篤二の廃嫡と慶喜の死~
「その1」のつづきです。
渋沢栄一の次男(長男は夭折)として明治5年(1872年)に生まれた篤二。かつては女遊びに興じて受験に失敗し、熊本にある第五高等学校に進むも女を連れて大阪に逃げると言う駆け落ち騒動を起こして退学させられ、栄一の故郷である血洗島で謹慎させられるなどの問題児でしたが、22歳のときに華族の娘・敦子と結婚すると、しばらくは落ち着いて3人の子宝にも恵まれました。また、実業家・渋沢栄一の嫡男としても、渋沢倉庫、東京毛織物会社の取締役として仕事にも励み、26歳のときには欧米諸国を歴遊し、渋沢家の跡取りとして見聞を広げました。かつての不良息子も立派な大人に成長した、周囲もそう思っていたことでしょう。
もっとも、篤二の遊び好きの性分が消えたわけではありませんでした。彼は義太夫や小唄、謡曲など、趣味に明け暮れていたようです。そして芸者遊びも相変わらずでした。ただ、女遊びに関していえば栄一も負けず劣らずでしたから、父として篤二に厳格なことは言えなかったでしょう。仕事と家庭をちゃんと守っていれば、少しの遊びぐらい・・・そう思って大目に見ていたんじゃないでしょうか。ところが、これが少しの遊びじゃなくなっちゃうんですね。当初は妻子とともに福住町の渋沢栄一邸で暮らしていた篤二でしたが、明治39年(1906年)ごろに三田綱町に転居すると、やがて妻子の暮らす家には帰らなくなり、新橋の芸者・玉蝶と暮らすようになっていました。そして明治44年(1911年)5月、篤二は妻を離縁して玉蝶を家に入れると言い出します。このスキャンダルは、新聞にも掲載されました。これに対して栄一は、さすがに「人倫にもとる」として、篤二を廃嫡とします。当時、社会的地位の高い男は妾の一人や二人いても当たり前で、栄一自身も妾宅を持っていましたが、本妻を追い出して妾を家に入れるというのは、当時の社会通念的にも許されないことだったんですね。
その後、栄一の後継者には篤二の長男・敬三が就きました。当初、敬三は動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していましたが、ドラマで描かれていたように、栄一が羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、あきらめて英法科に進学します。のちに日銀総裁、そして大蔵大臣となる渋沢敬三の人生は、こうして決まったんですね。
栄一がプロデュースした徳川慶喜の伝記編纂のためのヒヤリング会は「昔夢会」と呼ばれ、明治40年(1907年)7月から慶喜が亡くなる2ヵ月前の大正2年(1913年)9月まで、計26回行われました。編纂所は渋沢邸内で、編纂事務員は東京帝国大学教授の萩野由之や國學院大學教授の井野辺茂雄など歴史学者たちで、彼らの質問に慶喜が直接答えるかたちで編纂事業が進められました。かつての将軍ですからね。40年前なら皆が平伏して下々が質問などできるはずのない人物。萩野も井野辺も、そして栄一も、時代が変わったということをしみじみ実感したに違いありません。萩野や井野辺らは、さすがに歴史の専門家だけあって、慶喜の立場に配慮しながらも、時に彼を追い詰める質問をしています。そうした質問に対して慶喜は、多少ははぐらかして答えているように取れるところも見受けられますが、基本的に真摯に回答しています。この慶喜の発言内容を裏付けるため、まだかろうじて生存していた関係者にも取材し、そこで疑問点が生まれると、関連史料を提示してまた慶喜に問いただす。こうした経緯を経て編纂員の執筆による素稿が提出されると、栄一が一章ごとに慶喜に提出しました。慶喜はこれに丁寧に目を通し、修正すべき点があれば付箋に自筆で意見を記して返却しました。ドラマでも描かれていましたね。さらに、口頭での詳しい説明が必要と判断した場合は、編纂員を呼んで詳細に説明したそうです。
そして、結果的に初稿のみでしたが、慶喜は『徳川慶喜公伝』の静岡移住の章まで、すべて自身で目を通しました。自身の伝記を自身で校正するというのは、どんな気分だったでしょうね。本人が語るところの伝記ですから、どうしても保身や弁明が見受けられ、真実の伝記ではないという意見もありますが、少なくとも慶喜本人にしか語れない歴史というのはあるわけで、貴重な伝記史料と言っていいでしょう。栄一が後世に遺した数々の事業と同じぐらい、価値ある仕事と言えます。
慶喜が風邪をこじらせ、肺炎を起こしてこの世を去ったのは、大正2年(1913年)11月22日でした。享年77。徳川歴代将軍のなかで最も長寿でした。ドラマでは描かれていませんが、その葬儀委員長は栄一が務めました。ところが、この葬儀に際して一悶着ありました。というのも、慶喜の遺言で、葬儀を神式で執り行うことになったからです。周知のとおり、歴代将軍は没後、院号を与えられ、菩提寺である増上寺か寛永寺に葬られるのが慣例でした。それを慶喜家が神式で行うと言い出したため、寛永寺から反対の声があがり、話し合いが重ねられた結果、寛永寺の裏手にあった空き地に斎場を設置することで折り合いが付き、ようやく30日に葬儀が神式によって執り行われました。その後、慶喜の遺骨はこのあと新たに購入した上野の谷中墓地に埋葬されます。増上寺か寛永寺に埋葬されなかったのは、歴代将軍のなかで慶喜だけです。慶喜が神葬を選んだ理由については詳らかではありませんが、神道を重視した皇室への配慮と見ていいでしょうね。慶喜は死ぬまで「尊王」だったわけです。いろんな意味で歴代将軍のなかでは異例だった慶喜。通常、権力の座から転落した歴史上の偉人たちは、往々にして暗殺されるか、短命に終わることがほとんどですが、慶喜は徳川歴代将軍のなかで最も長寿という大往生を遂げました。実に「快なり!」な人生だったといえるかもしれません。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2021-12-21 23:36 | 青天を衝け | Trackback(1) | Comments(4)

日本資本主義の父・渋沢栄一は、天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡(現埼玉県深谷市)血洗島村の豪農に長男として生まれた。栄一は、当時としては記録的長命の91歳まで生きた人だけに、どうしても晩年の神様イメージで見られるようだが、彼の孫で大蔵大臣、日銀総裁を務めた渋沢敬三によると、「80歳を過ぎた頃から、特に、この世の人ではないような独特の境地に達していた」という。いわゆる、「解脱」というものか。この点、元日本商工会議所会頭・永野重雄は、晩年の栄一に接した経験を持つが、その永野によると、「私が会った頃...... more
私はこの点、近親的にも、時代的にも、継承しておらず。
やはり、せめて、昭和一桁生まれくらいの謦咳に接した人たちに、そういう志を持ってほしかったですね。
たしかに、「伝記」というテーマでいえばそうかもしれませんね。
でも、人物研究という観点でいえば、しがらみも忖度も贔屓もない後世の眼の方が、客観的な実像に迫れるという見方もあります。
貴兄の執筆を期待しています。