井伊家歴代藩主の墓所、清凉寺。
佐和山城西麓の龍潭寺の南隣りにある清凉寺は、彦根藩主井伊家の菩提寺です。
ここに、井伊家歴代藩主の半数が眠ります。

清凉寺は、慶長7年(1602年)、彦根藩初代藩主となった井伊直政の死去により、その墓所として創建されました。
背後に見える山が、近江に入った直政が居城とした佐和山城です。

入口には「井伊家菩提寺」と刻まれた石碑が。

山門です。

説明書きの駒札。
直政の戒名「祥寿院殿清凉泰安大居士」に由来し、山号を「祥寿山」、寺号を「清凉寺」としたそうです。

境内です。

デカイ堂宇に圧巻。

井伊家墓所は、寺域の最も奥まった本堂裏手にあります。

墓所の説明書きの駒札。

この石垣の上に、歴代藩主7人の墓があるようです。

藩主の墓が整然と並んでいます。

北側から順番に見ていきます。
いちばん北側にあるのが、第12代藩主・井伊直亮の墓。
文化9年(1812年)から藩主となり、天保6年(1835年)から天保12年(1841年)には幕府大老を務めました。
直亮には実子がなく、養嗣子にしていた弟の井伊直元が早世したため、さらに下の弟で国元にいた井伊直弼を代わって養嗣子としました。
その直弼がのちに幕府大老となり、桜田門外の変で殺されるんですね。
ちなみに直弼の墓はここにはありません。

そのとなりが、第11代藩主・井伊直中の墓です。
さっきの直亮、そして直弼のお父さんですね。
直弼が十四男だったことからみても、かなりの子沢山、よほど精力絶倫だったようですね(笑)。
ここ清凉寺の北に藩祖の井伊直政らを祀るために井伊神社を創設し、さらに、佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成の慰霊を行ったのも直中でした。

その北隣が第5代藩主・井伊直通の墓です。
元禄14年(1701年)に数え13歳の若さで藩主となり、宝永7年(1710年)7月26日に22歳の若さで死去したそうです。

そして、その隣が、初代藩主・井伊直政の墓。
ちょうど真ん中にあり、直政の墓だけ玉垣で囲われています。
言わずと知れた徳川四天王のひとりで、井伊家中興の祖ですね。
関ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康から近江佐和山18万石を与えられた直政は、石田三成の居城だった佐和山城に入りますが、その直後に新たに彦根城築城を計画。
しかし、合戦で受けた鉄砲傷がもとで、慶長7年(1602年)2月1日、彦根城の完成を見ることなくこの世を去ります。
享年42。
遠江に生まれ、家康の側近となってからは三河で暮らし、家康が江戸に入ると上野国箕輪12万石の大名となっていた直政にとって、近江は縁もゆかりもなかった土地。
まさか、ここに眠ることになろうとは思ってもみなかったでしょうね。

その隣の墓が、誰のものかわからない。
墓碑には「井伊家代々之墓」と刻まれています。
供養塔のような存在でしょうか?

その隣が、第3代藩主・井伊直澄の墓。
この人も幕府大老を務めています。

そして、その隣が第8代藩主・井伊直定の墓。
病弱だったため一旦隠居したものの、あとを継いだ井伊直禔が急逝したため、やむなく病身を押して再登板となったという経歴の持ち主です。
(井伊家当主の数え方はいろいろあって、別の数え方でいえば、第9代および第11代藩主となります)

ここまでで6人の藩主の墓が整然と横並びにあったのですが、7人目の第7代藩主・井伊直惟の墓だけ、なぜか一段上がった石垣の上に他の墓を見下ろすようにあります。

こちらが第7代藩主・井伊直惟の墓です。
文化にも造詣が深く、絵画や詩文を残した人物だったそうですが、なぜこの人の墓だけ特別な場所にあるのかわかりません。
初代・直政の墓が特別扱いだったらわかるし、12代、13代といった後半の藩主が、墓の場所がなくなって上に作ったというなら理解できますが・・・。
理由を知っている人がいれば、教えてください。

墓所内のさらに奥には、他にも古い墓石がたくさんあります。
説明板によると、歴代藩主の正室や側室、子息、子女ら一族の墓石が計58基あるそうです。

あと、8代藩主・直定の墓の隣の墓所隅っこに、小さな宝篋印塔がひっそりとあります。

この宝篋印塔は、小田原藩を改易され、第2代藩主・井伊直孝預かりとなっていた元小田原藩主の大久保忠隣の供養塔だそうです。
大久保忠隣は徳川家康の近習で、第2代将軍・徳川秀忠の傅役を務め、秀忠付の家老となっていた重臣でしたが、慶長18年(1613年)に京都のキリスト教徒捕縛を命じられて、慶長19年(1614年)にこれを遂行した数日後、突然、京都所司代の板倉勝重から改易の報せを受けます。
その理由については諸説あり、一説には、本多正信・正純父子との政争によって追い落とされたとの見方もありますが、真相は藪の中です。
改易された忠隣は近江国栗太郡中村郷五千石の身を与えられ、のちに井伊家預かりとなって佐和山に移り住み、寛永5年(1628年)、75歳で死去しました。
将軍家の許しが下ることはついにありませんでした。
まさか、こんなところで大久保忠隣の供養塔を拝めるとは思いませんでしたね。
大久保忠隣と本多正信・正純父子との政争については、平成12年(2000)のNHK大河ドラマ『葵徳川三代』で上手く描かれていましたね。

清凉寺井伊家墓所の墓参りを終えましたが、周辺には井伊家ゆかりの場所がまだあり、ついでといっちゃあなんですが、せっかくなので、次稿につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-01-14 01:03 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)